頭の中にあるのは何?
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2/28(日)のなんでや劇場 [2]「私権時代に求められた能力と、共認時代に求められる能力」(① [3]② [4]③ [5])
を受け、「るいネット」 [6]のお題「私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな初へ)」 [7] より、皆の役に立つ投稿を紹介するシリーズの第5回です。
○第1回:「潮流1:共認原理と私権原理」 [8])
○第2回:「共認力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている」 [9]
○第3回:「’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束」 [10]
○第4回:「社会貢献が売れるわけ」 [11]
前回は、「消費」と「仕事」における「自分発からみんな発へ」の意識潮流変化の最新事例についてみてきました。
しかし、現在大半の企業は、人々の意識が共認収束しつつあるにも関わらず、生存圧力⇒私権圧力を前提に作られた「力の序列原理」 [12]のままであり、そこで長年過ごす中で身に染み付いた「自分発」の仕事スタイルから脱却できないでいる中高年層も多いと思われます。
そこで、どうしたらそこから脱却⇒「みんな発」の新たな活力を創出していけるか?の可能性を与えてくれる投稿を紹介したいと思います。
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■中高年層、さあどうする! [13]
中身に入り創意工夫を怠らず、高い成果を出す人もいれば、他人の成果を右から左に流すだけの人もいる。後者はその結果、成果不良でトラブルを招き、その解決も人任せになる。なぜならば、ここでも中身に入らないので、解決できる状況に無いのだ。
特に、序列原理の時代を若い時代に体験した、中高年の中に後者の人材は多い。この人たちの仕事観は、突き詰めれば楽をして(=人に押し付けて)給与だけをもらうということだろう。言い換えれば、自分の(私権の)ための仕事なのである。
それゆえ、私権原理から共認原理へ移行した現在大きな問題が起きる。
まず、序列原理の中では、上司に取り入り出世すれば給料も上がる。その結果、人を勝手にこき使う権力を与えられ、中身が無くても、部下にやらせた仕事の成果を右から左に流すだけで自分の成果になり、さらに私権を獲得できた。それに必要な能力が関係力だったのである。
このように、関係力で人をだまして成果をあげることが活力源という異常な構造だが、当人たちはハッキリ自覚してないのか普通だ。まずこの事実を捨象しないことだ。そして、いまだにこの手法から抜け出せず、中身に入らないのはサボりだという認識もだ。
そして、共認原理に移行した現在、求められるのは追求力と、その中身を基にした共認形成力だ。当然、共認形成のための発信力も含まれる。
ここでは、中身なしの指示では、誰も納得できないし、評価もされない。要するに共認が得られないのである。その結果、成果も評価も上がらず、活力ダウンしていく。それでも私権のためだけに会社にしがみつく、哀れな状態だ。
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特に中間管理職においては、「手を動かすのは仕事ができない証拠」といったことまで堂々と言われているようです。
しかし、中身の無い理不尽な上司の指示に対して部下達が反乱を起こし、集団で仕事をボイコット・・・あわてて上司の方から泣きが入る・・・あるいは、病状に対し、ちゃんと容態を確認せずいつもズレた治療方針を出す医師に対し、看護師達がみんなで改善要望を出すと共に、新たな患者を回さないよう上層部に直訴するなど、今や中身を考えずに関係力だけで下を従わせようとしても共認が得られず上手くいかないばかりか、下からの共認圧力によって追い込まれる・・・こうした序列原理崩壊現象も、珍しいことではなくなってきているようです。
つづく
つまり、共認原理では、皆の評価こそが全てだから、これに沿って行動することによって、自分も含めた組織の活力や充足が得られる。だから、徹底的に考え、皆にスッキリしたという評価を得られるまで成果を高めていくことが必要になる。
そうすると、創意工夫する活力源は、皆の期待を捉え、それに応えようと本気で思えるかどうかにかかっていることになる。そうなれば、中身の追求をして成果を出すことができる。まさに、自分のための仕事からみんなのための仕事へ転換だ。
だから、いまや中身の追求ができないのは、自分のことしか考えてないからだということになる。つまり、『自己中』だから追求力が上昇しないのだ!これは、衝撃的な結論だが実感ともあっている。
ところで、中高年は中間管理職というポジションが多くなる。これがまた大きな問題をはらむ。かつての中間管理職は、部下にやらせることが仕事だった。つまり、自分のやる具体作業が無いのである。このイメージで現在の指導者の仕事を捉えると大きな間違いが起きる。
なぜならば、共認原理の時代では、かつてのような高圧的な指示(=強制)は受け入れられない。だから、表面的には共認原理を装ったやわらかい指示になる。ただし、染み付いた口先だけという習性から、中身がなくみんなの共認が得られないのである。
ここでは、相手が自ら考えることのできるようになる、状況認識や判断基準や具体的方針そのものを文書にまとめるなど、みんながスッキリ理解できるのに役に立つ成果品を作るという、『指導者の実作業』が必要なのである。
(後略)
どうしたら皆がより仕事がしやすくなるか?=どうしたら周りの活力⇒成果を上げることができるか?を絶えず考えて自ら手を動かす・・・そして、その評価を皆に委ねていくことで「自分発からみんな発へ」と転換していけると思います。
そして、この「相手発」の意識こそが、真の「主体性」=「当事者意識」を形成してゆく・・・
■『主体性も相手発』・・・言われたことだけやる=言われたこともできないという構造 [15]
トラブルが起きても、なかなか収束できない場合がある。それは、クライアントからのクレーム(=要望)に、そのつど応えていくだけで、体系的な対応になっていない場合だ。そうすると、次から次へでてくるクレームに、もぐら叩きのような対応を迫られ、いつまでたっても収束せず不信感のみが増幅される。
なぜか?それは、打合せの経過の中で、当初から共認形成ができていない成果予定が、納品されて初めて現物確認できるようになる。その結果、クライアントは自分の望んだものと異なるものとわかり、クレームになるというものだ。企画書と実際のイベントや設計図と現実の建物の関係などがこれに当たる。
このような場合、担当者は一見正しく聞こえる『最初に確認しておけば、こんなことにならなかった』という反省をする。しかし、この思考法がトラブルに原因なのだ。ここを理解するには、まず、相手の要望を『全て』事前に確認するということは不可能であるという認識が必要だ。
もし、それを全て事前に正確に出してくるクライアントがいるならば、彼らは自分で企画などを作るだろう。そうなれば、プロは要らないから仕事もなくなる。現実場面は、どんなに気を使って説明しようとも、企画書や設計図の内容のうち、クライアントが理解しているのは30%くらいだと思う。
それでもトラブルならないのはなぜか?それは、クライアントが当初理解していなかった部分が、時を経て現実のものとなっても、彼らの当初からある潜在思念と一致しているからである。平たく言うと、『こういうものを求めていたんだ』という意識になるからだ。
こうなるためには、相手が何を感じ何を求めているのか?という視点で徹底的に同化して行く必要がある。そこができれば、企画段階の打合せ内容と現物とが違うというクレームにはならない。そうすれば、相手の期待以上に相手に応えることが出来るということになる。
また、主体性とは、外圧に立ち向かっていく能力といわれるが、現在は、その外圧のほとんどが相手の期待圧力になった。そうなれば、相手の期待に応える能力は同化能力に規定される。つまり、主体性とは突き詰めれば同化能力になる。
だから、トラブルが起きるのは主体性が無いからということになる。相手の言ったことに一つ一つ反応して、言われたとおりにやるのは、一見期待に応えていると見えても、実は言いなりでなんの主体性も無いのだ。結果、言われたことだけやる=言われたこともできない、ということになる。
ここを超えるためにも、徹底的に相手に同化し、相手の発信以上に相手の期待に応えていく必要がある。これこそが主体性なのだ。つまり主体性も相手発なのだ。
「主体性」と言えば、自らの内側から湧き出てくるものと考えがちですが、それは「自分以外は敵」の私権時代の話し・・・共認原理に転換した現在、「主体性」=「当事者意識」はいかに相手の期待に応えられるか?期待に応えたい!といった相手発の想いから生じてくる・・・この認識の大転換が必要だということです。
【参考投稿】
「今日一日、何人の人の活力をあげられただろう?」と問い続ける [16]
共認充足が無ければ成果なし [17]
充足が活力を生み、活力が成果を生む [18]
次回は、こうした「自分発からみんな発へ」の転換を阻むものの正体について考えてみたいと思います。