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私権原理から共認原理への大転換~共認力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている

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最高神祇官のローブをまとったローマ皇帝アウグストゥス
(画像はWikipedia [1] よりお借りしました)
最高神祇官は、全ての神官の長であり、アウグストゥスは皇帝と最高神祇官を兼任することで絶大な権力を有していた。
2/28(日)のなんでや劇場 [2]「私権時代に求められた能力と、共認時代に求められる能力」( [3] [4] [5])
を受け、「るいネット」 [6]のお題「私権原理から共認原理への大転換(自分発からみんな初へ)」 [7] より、皆の役に立つ投稿を紹介するシリーズの第2回です。(第1回は「潮流1:共認原理と私権原理」 [8])


なんで屋劇場では、冒頭、私権時代の「力」とはどのような構造だったのか?が扱われました。
⇒ここでのポイントは・・・
私権社会の力である武力や資本力は、個体の能力たる腕力とは異なり、あくまでも集団としての力(集団統合力)であり、それは共認形成力に規定される。
ただし、この共認形成力は、既成の私権ヒエラルキーの上位層の抱きこみを目的とした利益誘導(=アメとムチ)のためのものであり、国民大衆全体を対象とはしていなかった。
・・・でした。
これとは異なる視点として、国民大衆全体も、武力を超えた支配共認によって統合されていたことが、以下の投稿よりわかります。

武力支配時代でも、序列原理から共認原理へ徐々に移行している  [9]
>(13世紀の神学者)トマス-アクィナスは、自然も人間も社会も、それぞれ固有の存在意義と存在目的をもっているが、下級のものは上級に、上級のものはさらに上級のものに、そして最後には最終目的としての神に従属すると考えた。つまり、宇宙全体は、キリストを頂点とする段階的秩序を形成し、万物は有機的結合を構成していて、キリストの神秘的なからだである教会の成員は神の定めた身分秩序と役割にしたがって教会の目的実現に奉仕しているとする。(「理解しやすい倫理」より引用)
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トマス-アクィナス
宗教教団が身分序列で統合されているだけでなく、その教義そのものが、現実の身分序列を正当化していることがわかります。
>人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。実現論 [10]
(中略)
武力支配国家の初期、宗教が成立した2600年前は、大衆は全てを失ったどん底状態(虐殺or奴隷)でした。凄まじい生存圧力下に置かれていたがゆえに、序列原理が強力に働き、力の序列の強制共認のみで統合されていたが、大衆の共認不全があまりにも大きい統合様式だったので、救い欠乏が生まれ、宗教が登場し、共認されていった。
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最初は、国家は力の序列の強制共認で統合していたが、国家が秩序化・安定化し、生存圧力が衰弱した結果、力の序列だけでは統合できなくなり、支配共認として宗教の力を借りなければならなくなった。古代・中世の武力支配時代においても、生存圧力の衰弱に従って、統合原理が序列原理から共認原理へと、徐々に移行してきたと捉えることができます。

⇒つまり・・・
秩序安定期に入った武力支配国家においては、武力を背景にした力の序列原理だけで人々を統合することはできず、古代宗教という支配共認の力に頼らざるを得なくなった。
そして、それゆれ支配共認形成を司る僧侶(近代においては学者)の力は絶大となり、支配階級としての座を磐石にしていった。 
・・・ということです。
因みに、現在の社会においても支配共認を形成する支配階級は生息し続けています。
それは、もはや生命力を失った近代思想にしがみつく「現代の神官」=学者やマスコミや官僚です。
(参考: 「現代の神官=社会統合階級の欺瞞」 [11] )
ここで、改めてこれらの“力”を「制覇力」(勝つための力)と「統合力」(まとめる力)という観点から考えてみよう。

共認力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている [12]
> 実は「力」のパラダイムは既に、「武力」<「経済力」<「共認力」に転換している。) [13]
なんでや劇場で、「制覇力」と「統合力」という概念を聞きました。マスコミが第一権力化する前には「経済力」が制覇力だったのなら、なぜ資本家や財閥が第一権力者ではないのか?という疑問に対する答えです。
武力や経済力は序列闘争の勝ち負けを制する制覇力ではあるが、単にそれを所有しているだけでは人間社会は統合できない。つまり統合力たり得ない。社会を最終的に支えているのは常に秩序や制度を成立させる力=統合力の方だということです。これが動物と人間で大きく異なる点だと。
武力を例にすると、確かに、西洋の王侯貴族や日本の天皇制も含め、古代~中世において国家の頂点に君臨してきたのは、必ずしも自ら強大な武闘・軍事を誇る武人たちだった訳ではありません。頂点につく過程では武力がモノを言いますが、いざその地位と体制的に磐石に維持しようとすれば、民衆を束ねる、国家秩序を司るといった全く別の力が必要になってくる。これが制覇力と統合力の違いなのだと思います(いわゆる軍事政権は制覇力と統合力を兼ね備えようとするケースと考えられる)。
だから、各時代の制覇力は結局は最も統合力を発揮する人間、あるいは組織の下に組み込まれ、「権力」はその者たちが掌握することになる。
そうするとなおさら、国家統合という集団適応の「抜け道」=国家の寄生物でしかない市場の住人に統合力のある筈もなく、従って幾ら財閥や大企業が富を誇っても、体制を動かす位置にいる政治家には全く頭が上がらず、喜んで政治献金を献上する存在になるのは自明です。
そして、共認力だけが、武力や資本力と違って始めから制覇力と統合力を兼ね備えた「力」である、ということです。これは、共認が人類社会の最終的な統合様式であり、時代が共認力を制覇力=統合力とする時代に変わったということは、既にその最終段階に入った事を示しているのだと思います。改めて、ここをマスコミが寡占していることの問題の大きさが浮かび上がってきます。

⇒各時代区分における「制覇力」と「統合力」の関係は・・・
●武力支配国家・・・・・制覇力=武 力  統合力=共認力  利益誘導、アメとムチ
●市場社会・・・・・・・・・制覇力=資本力  統合力=共認力  100%騙し、ハッタリ
●共認社会・・・・・・・・・制覇力=共認力  統合力=共認力  事実に基づく構造観念
共認(形成)力だけが制覇力と統合力を兼ね備えている。
そして、誰もが認める事実に基づく共認形成力を持つものが、騙し・ハッタリの旧観念との共認闘争を制する。
・・・その主役は、我々一般大衆だということです

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万人による事実追求⇒共認形成の場~「るいネット」 [6]

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