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<アインシュタインと湯川秀樹:画像はコチラ [2]からお借りしました>
前回のエントリー「観念パラダイムの逆転6 残る観念は、頭で塗り替えたら終い [3]」において、思考とは現実の圧力に適応するために行われるものであること、そして貧困の消滅以降、現実圧力が序列圧力から同類圧力へと転換し、共認充足、本源充足の可能性が開かれたことから、現実否定に基づく旧パラダイムから現実直視→可能性視の新パラダイムに、必然的に思考パラダイムは転換すること。いまや特権的知識階級(学者、マスコミ)の存在が、パラダイム転換の阻害要因となっているが、序列原理と旧パラダイムに依拠する彼らの存在は歴史上の遺物でしかないことなどを四方氏の投稿から明らかにした。
今回は、「観念パラダイムの逆転7 新しい認識だけが、現実を変えてゆく [4]」の紹介を通じて現実を変える=実現するためには、更にどのような思考スタンスが必要なのかを紹介したい。
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「観念パラダイムの逆転3 [6]」において、現在「現実とは人々の意識である」ことが四方氏によって示された。その認識に基づき、この節では、「社会が変わるとは、人々の共認内容が変わることである」との提起がなされている。つまり言葉を変えれば「社会とは、人々の共認内容が作り出すという」、社会という漠たる対象をより具体的なものに構造化した提起でもある。
そして、共認内容を変えるために今、最も必要なことは、新たな状況認識に基づき、新たな可能性を提起すること、即ち「新しい認識を紡ぎ出すこと」である事が、鮮明に提起されている。
そのスタンスの違いは、「社会を変える」ために、100年一日の如く同じスローガンを叫び、反政府運動や「要求運動」を繰り返してきた「既成運動」と対比すれば明らかである。
まず、事実として「既成運動」によって唱えられてきた「社会変革」(近代思想が唱えた理想)など実現した試しがない。ロシア革命始め、共産主義革命は結局武力支配の体制の一変種に終わったことは明らかである。それどころか社会変革を唱える既成運動も衰退するばかりである。
では何故「社会変革」という言葉自体が欺瞞観念となる宿命にあるのか?
真っ当な思考においては、常に現実の問題とその突破口の探索という形で問題が立てられ、実現に向けてとことん思考は具体化されてゆく(対象も方針も)。
それに対して「社会」いう概念は、一個の「抽象観念」に過ぎない。例えば「社会に問題がある」と問題を立てた場合、問題の原因であるはずの「社会」は曖昧模糊としたまま、雲の上の訳の分からないものにすり替わってしまっている。抽象観念の欠陥である。
とりわけ近代「社会」という言葉は、「個人」との対語として用いられてきた、嫌いさえある。さらに、「変革」という意識(言葉)の背景には、端から社会を否定的対象として捉える意識(前提)がある。つまり「社会変革」とは、問題を社会という抽象的存在に押しつけて、自己の否定意識を正当化したものに過ぎない。そのことをより詳しく触れた説明が「自主管理の招待(3) [7]」という投稿にあるので少し長くなるが紹介する。
更に連関させていえば、「社会変革」という言葉そのものは思想の衰弱と共に力を喪っていったが、それに代わってここ10年は「改革」という言葉が世を跋扈した。
しかし「改革」という言葉も騙しであったことは明らかである。
例えば05年小泉フィーバーは「構造改革」あるいは「改革を止めるな」というスローガンが用いられた。これも「社会変革」と同様、「社会」という言葉を構造という言葉に置き換えただけで、肝心の構造の中身は殆どまともに示されなかった。日本の閉鎖的「構造」が閉塞の原因と一方的的に問題をすり替え、メディアを総動員して「改革」というバラ色の言葉によって、人々を騙しへと誘導したものにすぎなかったことは今となっては明らかである。(「改革」という美辞麗句に隠された、その実態は外資やアメリカに日本を売り渡した、売国政策に過ぎなかったことが、急速に明らかにされつつある)
<構造改革:画像はコチラ [10]からお借りしました><Change!:画像はコチラ [11]からお借りしました>
ここで「社会」や「自然」や「改革」なる言葉は「抽象観念」さらにいえばそれ自体が欺瞞観念であるという提起が四方氏からなされている。確かにそうだと思う。
例えば農業や漁業を営んでいる人たちは、決して自然などという抽象的な現実の中で格闘しているわけではなかろう。彼らが克服すべき対象は日照りであり、波であり、土質であり、それぞれの自然現象は相互に連関しているものの、直接的に格闘しているのは具体的対象である。
原始人にとってはなおさらであって、彼らは自然現象の背後に目に見えない超越的な力を見いだし、それを精霊と名付けた。それらは「八百万(やおろず)の神」という言葉に象徴されるように、それぞれがとことん具象的である。
それに対して、「自然」という観念は単に人間(人為)の対比観念に過ぎなく、(「社会」と同様に)その言葉自体ではそれ以上の意味を持たない抽象観念である。従ってその言葉を用いても現実は何ら対象化されず、ましてや実現など出来るわけはない。
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<大木:画像はコチラ [13]からお借りしました>
驚くべきことに、「社会」や「自然」という一見中立的な観念さえ、実は倒錯観念(欺瞞観念)という色彩を濃厚に孕んでいた。物事を実現していく上では、何の役にも立たないという意味において。
当面は旧パラダイム派との観念闘争は必要になろう。しかし最終的には諸問題の突破口を「どうする?」という問題に観念闘争の中身は移行して行くであろう。
現実の可能性が開かれた現在、否定のパラダイムからの脱却はもとより、本当に実現するためには思考はとことん具体化されていく必要がある。より実現可能性を感じさせるような認識に肉薄してゆく必要がある。そのことを改めて心して、シリーズ第7の紹介を終えたい。
(このシリーズでは旧パラダイムからの逆転と、新パラダイムへの転換の必要性と必然性について様々な角度から扱ってきた。次回は、その全体を改めて俯瞰して紹介する内容としたい。)