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観念パラダイムの逆転5 「現実、その下部意識と上部意識」

%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9.jpg(アダム・スミス。国富論を発表。リンク [1]
 
前回のエントリー「観念パラダイムの逆転4」 [2]では、
・現実を否定するのではなく、現実を肯定した上で、新たな可能性を構造化する必要がある。
・とりわけ現在において実現基盤を抽出するには、意識潮流の分析が不可欠であり、その中でも特に「下部意識(潜在思念)」の対象化が重要である。

といういう切り口を紹介した。
 
今回は、「現実否定のパラダイムからの逆転」の提起に対する疑問と、その検証について触れた、四方氏の記事を紹介したい。
 
応援いつもありがとうございます。


以下「観念パラダイムの逆転5」 [3]から引用。

我々は、あくまでも現実に立脚し、現実を対象化して生きてゆく。それは、決して現実を否定しない(むしろ、とことん現実の可能性を追求してゆく)ということである。それに対しては、当然、次の様な疑問or反論が出てくるだろう。
1.現実に残存する自我・私権も否定はしないのか?
2.支配観念も現実の重要な構成要素であり、それを否定するのは矛盾では?
確かに現実は、本能回路・共認回路が形成する下部意識(=潜在思念)と、観念回路によって形成された上部意識(=既成観念)によって構成されている。
しかし、現実否定→倒錯観念は、本源価値にとって都合の悪い現実を捨象するだけで、決して現実を対象化することができない(古代思想)。
あるいは、現実に可能性が開かれても、現実を否定対象としてしか対象化できず、決して現実の可能性を対象化し構造化することが出来ない(近代思想)。
従って、現実否定の倒錯思考は、現実を構成する最も重要な下部意識を全うに対象化することが出来ない(従って、例えばサル・人類の命綱である共認回路の存在さえ、彼らは知らない)。


古代宗教は、あるべき社会(神の国)や人間像(人倫)を説いたが、社会そのものを対象化(構造化)する事は無かった。
近代思想は、社会思想として登場しており、一応社会を対象化してはいるが、社会矛盾、すなわちその否定的側面だけを対象化し、有るべき社会像を「自由」「平等」「人権」などの架空観念もって描き出しただけで、その現実基盤を発掘する事は出来なかった。
 
現実の可能性を対象化し追求することが出来ない、という近代思想の欠陥構造については、例えば、「経済学は現実の可能性、とりわけ市場の可能性を対象化していたのではないか」との反論があるかもしれない。
 
しかし、まず市場は社会の一部であって全てではない。実際、市場拡大が生み出す社会矛盾については考慮されなかった。(結局、マルクスなど一部の思想家たちが対象化したに過ぎなかった。)
 
それだけではない。市場拡大の欲求の原動力は生存圧力⇒豊かさ追求の潜在思念であるが、その豊かさ追求の可能性を開いた立役者は結局大量生産を可能にした「科学技術」であって、実は市場経済学の果たした役割は殆ど無いと思われる(むしろ市場拡大は世界的に見て、貧富の差を加速させただけである)。
 
つまり経済学は「豊かさ追求」という「現実の可能性」さえ真に対象化できていなかったことになる(この点でも経済学は衒学、つまり「騙し」である疑いが強い)。
 
%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88.jpg(フロイト。精神分析による治療を考案。リンク [4]
 
また下部意識を対象としていたという点では、例えば「心理学(フロイト)などは下部意識を対象化していたのではないか?」との疑問もあるかもしれない。しかしフロイトが用いた、潜在意識(id)、自我(ego)、超自我(superego)などの概念に見られるように、「個人の意識」を出発点とした個人主義的色彩から脱却できていなかった。
個人と個人の間にあり、それらを繋ぐもの(=共認機能)については、例えば集団心理なども心理学では扱うが、主にパニックや集団ヒステリーなどを対象としたものであり、文字通り否定的対象として捉えられているものである。これでは下部意識にとって決定的に重要である「共認機能」の存在を、肯定的な概念として発掘できるわけがない。
 

ところが、’70年、貧困の消滅によって、下部意識が大転換してゆく。私権時代を貫く(=現実否定→倒錯思考のパラダイムを貫く)自我・私権意識が急速に衰弱し、代って全意識の充足基調⇒本源収束が強まっていった(それが顕在化してきた=見え易くなったのは、’95年くらいからである)。
それに伴って、現実は、生存圧力の場から同類圧力の場へと大転換を遂げる。
現実の中に可能性を求める充足基調⇒本源収束の下部意識を、現実否定のパラダイムで導くことなど出来る訳がない。かくして、現実否定→倒錯思考のパラダイムと、それによって作られてきた全ての既成観念は、現実に通用しなくなって終った。
それどころか、このパラダイムは自ら変わることができないが故に、それが作り出した既成観念群が人々の上部意識(観念回路)を覆い尽くし、新しい時代を形成してゆく筈の下部意識=本源収束の出口を塞いで社会を全面閉塞状態に陥らせている。


 
mottainai.jpg(マータイ氏が提唱した「MOTTAINAI」。リンク [5]
 
具体的に充足基調とは、まずは70年代~80年代の「遊び収束(その中心は性)」から始まり、90年代の「家族収束」を経て「仲間収束」が顕在化する。そして00年代には「もったいない」という意識に象徴されるように「充足という判断基準から見て“必要か否か”」という意識も顕在化するなど、どんどん本源的な方向性を強めていっている。
 
もう一つの充足基調の流れであった「自然収束」や「アウトドア志向」は、近年の「農業志向」の登場などに見て取れるように、「癒し」から「人の役に立つ事」に軸足を移しつつあるなど、こちらも本源的な方向性を強めている。
 

常に次代へ向かう人々の先端意識は、すでに私権収束から本源収束へと転換した。従って、現実は、既に大勢として生存圧力の場から同類圧力の場へ転換したと云えるだろう。残存する自我・私権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅する。
従って、自我・私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。


 
今や新しい可能性を実現してゆく時代である。確かに社会や企業や家庭のガタガタ現象など、旧い価値や規範は崩壊していくばかりである。それは旧い価値から見れば「否定すべき現象」なのかもしれない。しかし今必要な事は、そのような一見否定的現象に見える、それらガタガタ現象の奥から立ち上ってくる新しい可能性の萌芽(私権制度の崩壊が生み出す可能性、本源収束の萌芽)をその中に発掘する事なのである。

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