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【観念パラダイムの逆転2】 ~現実否定の倒錯思考~

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(土井たか子氏:画像はコチラ [2]からお借りしました)
前回のエントリーでは、否定意識から脱却し、現実直視の状況認識の提示(構造化)へと、パラダイムを転換するべきであることを紹介した
今回は四方氏の「現実否定の倒錯思考 [3]」を紹介することで、この「現実否定意識」というものがいかに異常 であるか、その構造を見ていく
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るいネット [4]

原始人も現代人も、現実に立脚して生きており、その意味では、現実を受け容れ、肯定して生きている。それは、当然すぎるくらい当然の事であって、現実を否定するなどというのは天に唾するようなもので、現実には有り得ない不可能なことなのである。実際、我々はメシを喰うことを現実に否定することは出来ないし、その為に市場の中で何がしかの金を得ることを現実に否定することも出来ない。
現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。
それほどに、現実を否定する意識というものは異常な意識なのであり、この異常な現実否定こそ、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた可能性を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考の原点である。
現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。

本来、原始人や、自然界 の生物 は、現実を否定などしていない。彼らの生存状況は確かに過酷ではあったが、彼らはその過酷さを所与の状況として受け入れ、ひたすら現実の中に生存の突破口 を探し続けていただけである
しかし、近代以降、現代人は、あたかも「現実を否定・批判することは正しい事」であるかのように学校で教育されてきたしかし、実際は(肉体的に)現実を否定するということは、現実を一切受け付けないことを意味するのであって、言うまでも無くそれでは生きていくことが出来ない。従って、それは、あくまで頭の中(観念上)だけの所業に過ぎないものである。
実際、近代思想が掲げる中心観念は一切実現されたためしがない。例えば「自由」という観念を現実化しようとすれば、強者が好き放題に振る舞い、弱者は徹底的に不自由になる結果としかならない(アメリカとの関係を見れば一目瞭然である)。あるいは平等という観念を現実化しようとすれば、一切の競争は否定され、「自由」は制限され損なわれていく。(この点において自由と平等という2大観念は実は相互に矛盾している事も近代思想の架空性を物語っている
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(労働運動:画像はコチラ [6]からお借りしました。)
そればかりではない。近代思想(憲法)は個人の尊重(従って人権こそ最高価値)である事を主張する(ただし、言い訳の如く「公共の福祉に反しない限り」と注意書きを付す)。しかしながらこの近代思想が生まれた当時の公共の福祉、つまり社会秩序とは身分社会(序列体制)を指す。
彼らは旧い社会秩序を否定し、それに代わる「個人の自由が尊重される社会秩序」を頭の中で想定したのである(或いはそれを果たしうる神に代わる「観念的人間像」や「理性」なるものを頭の中だけで措定したのである)。
しかし現実の個人とは、万人が私権追求の主体であって、相互に敵対しあう存在である、その私権主体たる個人を最大限尊重する=野放しにした社会秩序など現実に存在する訳もない。個人の尊重が生み出す社会秩序という思想には根本的な矛盾が孕まれている。
従って、財政赤字、学級崩壊、無差別殺人いずれも

現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。

のである。

事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。

実際、問題があるから或いは悪だと思うから「否定する」ことは当然である、と多くの現代人は考えている。しかし本来求められるのはどうすればいいかの答えであって、そのためには直ちに状況を分析し、直ちに突破口を探索する思考に入るはずである。
つまり現実=社会や集団を否定し続けるといった固定スタンスになりえようがない。にも関わらす学校 では「批判精神」との重要性のみが教育され続けてきたのである。
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(デカルト「我思う、ゆえに我あり」:画像はコチラ [8]からお借りしました)

このパラダイムの内部では、それによって作られた観念群をどう組み変えても、又、どれだけ深く思考を巡らせても、決してパラダイムそのものを否定することは出来ない。だからこそ、これまで現実を否定する意識に対する懐疑(例えばデカルトの「我、思う」ことそれ自体に対する懐疑、例えば、思い続けている自分がおかしいのではないかという懐疑)は、針の先ほどさえ全く生じ得なかったのである。

この現実を捨象した(現実の根本構造から目をそらした)近代思想のパラダイムからどの様に脱却すればいいのか。そして現実を「対象化」するとはどのようなことなのか。次回はこれらの思考様式に触れた「観念パラダイムの逆転3 現実とは人々の意識である [9]」を紹介したい。

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