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マスコミは解体すべきである

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マスコミは、共認形成の場を独占し、報道機関が保つべき中立性・客観性の欠片も無く、「思想・表現の自由」を建前に一方通行の偏向・捏造報道を繰り返している。

その結果、人々の役に立つどころか権力を振りかざし暴走するマスコミへの不信感は日増しに高まってきている。

  以下、引用は「共認の輪 るいNETWORK [1] 『マスコミは解体すべきである』 [2]」より

     



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(※「世論調査.NET 『マスコミを指示しますか』より引用」 [3]>

マスコミは、必要なのか?

大手マスコミのテレビ番組や新聞が大衆生活に浸透しているのは事実であるが、これらは本当に「必要」と言えるのか?
報道etcによって社会情報を入手する必要はあるにしても、大手マスコミ数社が全国を独占(or寡占)する必然性はどこにもない。マスコミを介さずとも多様な媒体で発信される情報にアクセスできれば、何も困らない。

それどころか、マスコミの暴走は酷くなる一方であり、大衆のためのor大衆による社会世論形成という点では、極めて深刻な問題となってきている。

『思想・表現の自由』とは、第一義的に国民大衆のとっての『思想・表現の自由』であり、決してマスコミにとってのそれで無いことは論を待たない。

ところが、今や独占的な発信機関たるマスコミは、市民や民間団体の思想・表現を槍玉に挙げて潰しにかかる等、マスコミが大衆の思想・表現の自由を奪い去るような状況まで現出している。
大手マスコミの独占(or寡占)状態は、もはや大衆にとって阻害物、抑圧物でしかないのではないか。

鳩山内閣の22年度予算に対するマスコミ報道の欺瞞性 [4]
マスコミ報道が正しい議論を破壊している(八ッ場ダム問題において) [5]
 
世界の覇権交代が読めない、日本の特権階級(官僚・マスコミ) [6]
 
・バカでないとマスコミの記者にはなれないという話 [7]
 
マスコミは、そもそも「報道機関」なのか? [8]
 

マスコミは解体すべきであると思う。

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マスコミは、その公共性の高さゆえに中立性を保ち人々が求める客観性(事実性)のある情報を提供することが、強く求められている。
しかしながら、マスコミの言動は中立性を欠き、そしてマスコミからは人々が求める事実情報は流れてこない。というより流さない。
なぜか?

‘70年貧困が消滅(生存圧力が衰弱)し社会は共認原理に移行した。かつ、集団が解体されバラバラの個人として存在する市場社会において、マスコミが大衆の共認形成を司る位置、評価共認の形成機関にまでになった。
しかしながら、マスコミは「思想・表現の自由」を御旗に己の活動をどこまでも正当化しどこからも評価(圧力)を受けない。

考えてみれば、歴史上で誰からも批判・評価を受けないで済む事が可能な者は“権力者”しかいない。
マスコミが己以外は批判・評価しても誰からも評価圧力を受けずにおれることその事自体が、マスコミが権力者であることの何よりの証拠である。

マスコミは、背後からマスコミを操る権力者(アメリカ→官邸・電通→マスコミ)の意向と己の都合に沿い、事実無根のでっち上げと針小棒大の煽りを行い大衆を洗脳していく権力機関として存在しているに過ぎない。

権力者(※権力者の手先機関)が搾取される大衆(ひとびと)のために事実情報を流すことはない。
だから、中立性の態度もとらないし、人々が求める本質の事実情報は流さない。

権力者の洗脳機関として事実を捻じ曲げていること、にもかかわらずマス(大衆=ひとびと)を御旗にしていること、共認原理に移行している社会で共認形成の場を独占し権力を振りかざしていること、その犯罪性は幾重にも重なっている。
共認形成の場を独占し一部の権力者の為に活動を行ない続けることの犯罪性は極めて大きく測り知れない。

共認支配を跳ね返し、人々の共認社会を実現する最後の障害物は、核となる共認形成の場を独占しているマスコミを退場に追いやる事であり、逆に言えばマスコミを解体しなければ本当の共認社会は実現できない。

■その可能性は現実になってきている

世論操作に負けず大衆の共認力により露骨に暴走する特権階級に対し、反自民をなしえた‘09年衆院選挙が顕著に示すように、共認社会は日増しに進化し現実に顕在化していっている。

時代は力の序列原理の社会から共認原理の社会に転換しており、ひとびとの意識、共認形成はお題目ではなく現実の力に成っているのだ。

人々の“必要か否かの判断”でマスコミを解体することは最早、現実である。

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