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思考次元2 否定意識の倒錯思考

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どのようにしたら役に立つ認識が得られるのか?
 
前回のエントリーでは、そのことを解き明かした、四方氏の「思考次元1 潜在思念の実践思考 [1]」を紹介した。骨子は以下の2点である。
 
①生命体は、内識機能がキャッチした欠乏意識と、外識機能がキャッチした欠乏を充足させ得る現実の可能性基盤を、イコールで結ぶ事のできる実現経路によって外圧に適応している。それはあくまで現実の課題を突破すべく、「どうする?」というベクトルに貫かれたものであり、人類の元来の思考もこれを下敷きにしている。そこでは観念は殆ど使われないことさえある。
 
②加えて人類においては、外圧を突破すべく、主要に状況認識を整序するために観念も駆使されている。そこでは実現のための「見通し」を立てるために観念が用いられており、これこそが健全な観念の使われ方である。
 
今回はその実践思考とは逆の、近代人や現代人に顕著な思考=「否定意識の倒錯思考」を紹介したい。そして、それを通じて現代人、とりわけ知識人がどのような思考方法の欠陥構造に陥っているのかを明らかにしていきたい。
 
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思考次元2 否定意識の倒錯思考 [2]」より引用する。

現実に可能性が閉ざされ(or答えを発見できず)現実に対する強い否定回路が形成されている(従って、実現回路が貧弱である)場合、否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する。しかし不鮮明な潜在幻想では意識を統合できないので+幻想は観念化されて感応観念(価値観念や規範観念)を作り出し、この感応観念の下に全意識を統合しようとする。


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(紀元前586年のバビロン捕囚。こちら [3]よりお借りしました。)
 
ここで記述されている事象について、二つの事例を挙げておきたい。
 
一つ目は古代宗教及び近代思想である。古代宗教は武力支配の時代に生まれた。武力支配は、万人が私権の獲得に収束し、私権闘争を繰り広げた結果、必然的に武力に基づく序列支配=権力支配が生み出される。(参考:超国家・超市場論7 私権闘争を統合した 力の序列共認 [4]
この権力支配があらゆる貧困や戦争などの「苦」の源であるが、それに至ったのは突き詰めれば万人が私権を共認し、それに収束しているからである。近代の資本支配の時代も全く同じ構造である。従って現実を変革することは不可能である。この様に現実の可能性が閉ざされている以上、必然的に現実を否定し「神」や「自由」「平等」などの現実には存在しないプラス幻想、さらにそれを体系化した感応観念に収束するしかない。
 
もう一つが「自我」(自己正当化)に基づいた思考の構造である。
自我は周りのマイナス評価から生まれる「共認の鬼っ子」である。(参照:共認回路と自我回路 [5]
つまり周りからのマイナス評価という現実を捨象し(否定し)、自己を過大評価するプラス幻想に収束し、自己正当化の観念を作り上げる。つまり自分はあくまでも正しく、周りの評価がおかしいとする訳だ。
 

その際に考えるのは、どの言葉・物語が感応回路に響く(充足する)か、そして人々に共認されるかであり、その限りで状況認識や実現回路も貧しいながら作動している。しかし、この思考回路の主軸を成しているのは、現実を捨象した否定回路・感応回路であり、現実を対象化するのではなく、ひたすら内部意識を模索して観念化する倒錯思考の回路である。


このような感応観念を大衆に広く共認させるため、宗教や近代思想は、説話や音楽、小説や演劇や映画など感応回路=感情に訴える表現を生み出してゆく。
 
自我思考も同様である。周りの評価を撥ね返すためには、まず自分自身を納得しうる、強い思い込みが不可欠である。だからまず自己の内面探索(=あれこれの屁理屈)に主要なエネルギーが使われる。しかし自分ひとりだけの思い込みでは自我は不安定である。従ってそれを共認できる、仲間を捜し求める。
しかし、むき出しの「自我」など誰も認めてくれない。そこでその際に人々の感応回路に訴えるために、しばしば持ち出されるのが周り=集団や組織に対する不満であり、かつ「本来の(理想形の)姿から見ておかしい」という一見もっともらしい「理屈」である。
 

しかし、現実の実現回路から見れば、倒錯思考とは思考停止と同じである(正確には内面のみの片肺思考である)。まして、普通の人は既成の感応観念を選択的に理解・吸収して、そこに収束しているだけなので、殆ど思考停止しているのと変わらなくなる。

 
いずれにせよ、現実を否定し捨象している以上、現実が変わるわけもなく、実践思考という本来の思考から見れば、思考停止しているのと全く変わらない。
 

又、現実を捨象した幻想観念が実現される訳もなく、全意識を統合し切れる訳がない。その限りで絶えず悩みが生じることにもなるが、悩み思考は倒錯思考の副産物であって、思考しても停止しても現実は何も変わらない。


何故悩むのか?それは、本来なすべき課題を不可能視(絶望視)し、それが出来ない言い訳を考えるためのみに頭を使い、しかしそれでは規範観念や価値観念に照らし合わせて課題を捨象しきれないので葛藤し、自己攻撃に走るからである。課題を不可能視している点からみても、思考が対象に向かわず内面を漂っているだけである点から見ても、文字通り倒錯思考の賜物である。
 

その上、いったん否定回路⇒感応観念に収束して終うと、そこから脱け出せなくなる。従って、例え頭で感応観念を否定して構造認識に向かったとしても、否定意識とプラス幻想という思考の動力源が同じなので、偏り誤った(=現実からズレた)、従って実現の役に立たない構造認識しか生み出せない。
 
概ねこれが、現代知識人の思考様式である。


「一旦否定回路⇒感応観念に収束して終うと、そこから抜け出せなくなる。」倒錯思考の恐ろしい点はここにある。
 
現に現代の知識人が撒き散らす観念群の中には、一見近代思想とは様相が異なるものもある。しかし殆どの知識人は単に批判や批評をしているだけであって、問題の核心に殆ど迫れていないばかりか、現実の役に立つ認識という観点からは程遠い。
一度、現実否定意識に染まったものは、その後いくらあれこれの読書を重ねてみても、単にますます腰が重くなっていくだけという現象も幅広く存在する。(昔からインテリとは腰の重いものの代名詞でもあった。)
 
否定意識はそれを支える無数の観念(それを正当化する観念)によって支えられている。
だから否定意識そのものから脱却することが必要で、そのためにも、やはりいったんは自己に巣食う観念群そのものを全否定する必要があるのだ。
構造認識の現況3 既成観念の全的否定 [6]を参照のこと。)
 
では否定意識発ではない本来の観念とはどのようなものなのか?
次回は、それを学ぶべく、四方氏の「思考次元3 本能⇒共認⇒観念の超越思考(構造認識) [7]」を紹介していきたい。

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