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『みんな』に立脚した革命家:「長周新聞」福田正義主幹の紹介-1

“「長周新聞」福田正義主幹の生涯の活動”を数回に分けて紹介します

『共認の輪 るいNETWORK』お勧めサイト [1]」の中から
長周新聞『福田正義主幹の略歴』 [2]」より引用

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 特に、個人史であるが、それであるが故に生々しい現実感があり、その内容は理論以前に「みんな」に立脚した社会活動(→革命)が如何なるものかを私たちに示唆してくれる。

 みんなを標榜しながら、一部の要求・権利に乗っかった“偽者”の左翼運動と異なり、本物(みんな主義)の左翼革命家とはいかなるものか、また左翼・右翼とは何かに気づきを与えてくれる。

まず今回は、「“みんな”意識が形成された土壌」の青年期になるまでを紹介します。

 
 

貧乏と家庭不遇の少年期、あらゆる本むさぼり読む
福田正義主幹は1911(明治44)年下関に生まれた。生家は北前船の寄港地での乾物問屋として栄えていたが、1901(明治34)年の山陽鉄道の開通によって没落した。福田主幹が生まれ育った時期はすでに没落した後であった。貧乏に加えて家庭的に不遇であった。父治良は商売にむいた人というより、書がひじょうにうまく清元や浄瑠璃などの達者な人であったという。母シナは農家の出であったが、優しい人で、幼い福田主幹によく歴史の話、歴史上の人物の話などをしてくれていたという。その最愛の母親が小学2年、7歳のときに亡くなった。継母がきて異母弟妹ができるが、そのような環境は、少年期をひじょうに苦悩の深い生活とした。9歳のときに祖父吉蔵が死亡、23歳のときには父治良も死亡、継母は再婚し異母弟妹も養子にいった。福田主幹はソ連映画「人生案内」の主題歌である「みなし子のうた」を愛唱していたが、それは自分自身の境遇であった。

 小学校の時期には、社会と教師の欺まんに怒る精神がおう盛であったとしるしている。この時期の様子について、福田主幹が長周新聞に書いたもので「幼友達」という随想があり、当時の教師であった平井寿一氏が書いた「思い出」がある。それは困難な生活のなかでがんばった友だちが早くして死んだこと、そのような幼友だちへの深い思いであり、また正義心が強く、けんかが強かったという。いろんな家の前をとおるとき「どんな家か、どんな生活をしているところかなどを観察していた」といわれていた。しばしば話に出ていたのは、夏には近所の友だちと毎日武久海岸に海水浴に行っていたことである。

 
 自然豊かな海岸の田舎で生まれ育ち、乳幼児期は優しい母親に育てられ親和充足を得、そこでの充足体験は物事に対する肯定視を形成していた。また、母親から聞く歴史の話や父親の書などを通じて、幼少期より社会的視点の教育を受けていた。
その後、親の再婚や異母兄弟が離れ離れになるなど不遇のようにみえるが、乳幼少期の母親との親和充足に続き、学童期も仲間充足に恵まれていた。
 しかし、学童期に母親だけでなく友達も亡くす体験から、意識的に“みんな”に向くようになったと思われる。
このことが、小学生の時期にして、社会と教師の欺瞞に怒る精神が旺盛であった面に現れているが、当時の教師がそのことを肯定的に述べている事は、その怒りの背後に人や社会に対する深い肯定視があると想像できる。
 

小学校では頭はよかったが、家庭の事情で中学校には行かず、高等小学校から、下関商業実践学校へすすむ。この12歳から17歳の時期、「文学書から雑多な雑誌、左翼雑誌など手あたり次第に読みまくった」といっている。
「展望前後」のなかでは「あらゆる本屋で立ち読みをやるが、どこでもハエのように追い払われた。だが上山文英堂はきわめて寛大であった」とある。貧乏と家庭不遇という環境のなかで、まさに遊びやアヘンのようなものではない文学、自分の実生活の要求にこたえうる「生きる糧」「生きる喜び」をむさぼるように求めたのである。
当時学校でもそういう文学などを論じたり、左翼運動の体験を伝える仲間がいた。当時発展していた近代文学、プロレタリア文学の最良のものを摂取したであろうし、藤原義江の歌曲は愛唱歌であった。長周新聞の勤務員の子弟の教育で、小さい時期から読書をさせることを強調していたが、それは自分自身のこの体験にもとづいていた。
 小学校に入った年はロシア革命の年であり、その影響が日本にも広がり、熱気に満ちた社会主義運動の流れは下関にもおよんでくる。それは本をつうじて、やがて外へ出て帰った友人の体験などをつうじて、知っていくことになる。

 
 12歳から17歳の学生時代に、雑多な雑誌から左翼雑誌を読みまくり、運動の理論的な基礎を早くから学んでいた。
そして、その理論の吸収が、単なる観念論ではなく現実の生活の糧になる視点であったことは、人々の現実を直視したその後の活動の土壌になっていると思われる。
また、熱気に満ちた社会運動の流れは、それまでに醸成してきた社会への視点を可能性として顕在させることになる。
 

組織壊滅後の戦闘開始、展望発刊と門司新報で
 
そして下関商業実践学校を卒業する1928(昭和3)年の時期は、昭和恐慌のまっただなかであり、倒産と失業者があふれ、社会的階級的な矛盾が噴き出している時期である。
17歳になった福田主幹は、実践学校の助手にならないかという話もあったが、映画館「寿館」に入り映写係から宣伝部(看板書きなど)となった。
1930年には大阪に出て金物屋の店員となるが世界大恐慌のなかで、実体験として社会的矛盾にめざめていく。
 
1931年には下関にもどって看板屋をはじめながら、社会活動に参加していった。
 この時期、下関でも社会主義運動がしだいに活発になっていた。はじめに社会民衆党のグループ、アナーキーな集団などがあった。しだいにマルクス主義グループが登場していくが、そこにもさまざまな色あいがあった。
福田主幹は、下関ではじめてのメーデーをやり、第1回の普通選挙で市会議員になり、議場で暴漢に刺殺された熱血の社会主義者・山下富太の支持者となって活動をはじめた
山下はもとは右翼といわれるが空論ではなく、生命をかえりみぬ正義の行動力のなかに欺まんのない真実を見たのだと思われる。
山下は左翼書房を開き青年たちが多く出入りしていた。福田主幹はそれらの本を読みまくった。「思惟が存在を規定するか、存在が思惟を規定するか」という唯物論の根本命題を理解するのにしばらく悩んだと、のちに語っていた。
 山下の市会議員選挙で街頭にくり出して応援演説をやったり、できたばかりのプロキノを招待して映画会を成功させている。そして1932年プロレタリア科学同盟の下関の組織に参加した。この時期、トーキーに移行する過程での弁士、楽士の首切りに反対する下関の映画館全館のストライキを組織して勝利し、特高に地団駄を踏ませている。
自分がめだつのではなく陰にいるが実際的に大衆の要求をまとめて実現するように指導、援助する、そして特高も弾圧できない、というのはその後もつづく特徴である。
東海製菓のストライキを組織したりしているが、おもに文化運動のグループを組織していった。そして「共産党こそ支持すべき最高のもの」と考えるようになったのは、1932年21歳のときだと語っていた。

 
 失業者が溢れる世界恐慌という社会の酷さを実体験し、社会矛盾への問題意識に収束していく。
そして、20歳過ぎのこの頃に、欺瞞のない本物の正義の行動力を示す山下富太を通じて、若くして政治活動を体験した。

 
 その政治活動の特徴が、ストライキのような古い行動主義ではなく主に文化運動のグループを組織化していくことで、これは認識を主体とした運動であること。

 
 そして、特筆すべきは、「自分が目立つのではなく陰で実際的に大衆の要求をまとめて実現するように指導、援助する」という方法で、まさにこれは、みんなで協働して実現してゆくという、共認原理による運動論である。

 福田主幹が生きた時代は、生存圧力を基にした序列原理に貫かれた社会であり、そのなかにあって初めから共認原理での運動を展開しているところに、彼の“みんな”に立脚しているところが伺える。
 

長関共産党事件と展望の躍動的活動
その前年の1931年には満州事変が起き、東北地方では大凶作で娘の身売りなどが起きる。1922年に結成された日本共産党は果敢にたたかうが、1928年の3・15弾圧、29年の4・16弾圧などがつづき、なおも再建の努力がされていたが、1932年の大弾圧により1500人が逮捕され壊滅的な打撃を受けた。再建された広島地方委員会も壊滅し、防府まできていた共産党はついに下関にはこなかった。

 下関では、1932年末から33年にかけていわゆる「長関共産党事件」(マスコミがつけた名称で、実際には共産党員はいなかった)により国鉄、貯金局、内務省、街頭分子など福田主幹をふくむ148人の左翼青年が根こそぎ特高によって逮捕投獄された。かれらが獄中にいる33年には、小林多喜二が虐殺され、共産党幹部の佐野学・鍋山貞親の転向声明が出、京都大学の滝川事件があり学生運動もつぶされ、思想弾圧が荒れ狂った。下関の左翼青年の組織は完全というほど壊滅させられた。

 
 こうして敗走と転向がとうとうたる流れとなり、目先派手だった部分もたちまちしおれていった。まさに共産党が壊滅状態になり、下関の左翼組織も壊滅したなかで、決然として立ち上がり、福田主幹の本格的な活動が開始されていくことになる。
組織はつぶれているが、人民は苦難のなかにある、そこでどうたたかうかが福田主幹の活動の大きな特質をなすことになった。
 1933年「金があろうとなかろうと、なにがなんでもやらねばならぬ」という姿勢で青年グループとともに発刊したのが文芸雑誌『展望』である。その巻頭言は「雑誌展望は、芸術、映画、絵画、音楽、写真および科学をも包含するいうところの文化の、しかも、われわれ地方生活者の生活感情から、生活意識から生まれでたところの、正確なる反映体―いえば反射鏡としての役割を持って創刊された」とのべている。
その目的は、左翼青年グループを結集するセンターの役割をはたそうというものであった。

そこでの、多くの人人と深いところで切り結んだ豊かな活動の内容は、福田主幹の筆による「展望前後」にいきいきと描かれている。
 晩年にも当時の楽しい思い出として語っていたのが、展望社の青年たちが映画興行師のなかでは相手にされない「カリガリ博士」とエイゼンシュテインの「全線」を、1500人集めなければ採算があわない3階建ての寿館を借りきって大成功させたことであった。

 さらに、社会矛盾の大きさ、そして社会運動と「長関共産党事件」などの弾圧の激しさを身をもって体験する。
そして、組織が壊滅状態というなかで、決して怯むことなく立ち上がり、言論機関、組織を創り、そこでの仲間と人々との深い繋がりの成功体験が、今後展開していく彼の本物の社会運動の下地になった。
 
//////////////////////////////////////<続く>

今回の紹介はここまでです。
次回は、日中戦争前夜の紹介を行ないます 😀

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