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<大正時代>藩閥政治から民主化運動の背後にあったものは?No6~大正デモクラシーの実態~

<明治「形だけの近代化」>「制度が先行した日本」 [1] で見たように、明治22年に、憲法が制定され、近代国家の体裁が整えられたのですが、実態は「大日本帝国憲法」は、政党政治を前提としていないだけでなく、内閣及び内閣総理大臣の決定方法が明記されておらず、『大命降下(たいめいこうか) [2]』といって、天皇が、元老や重臣会議などの推挙に基づいて、内閣総理大臣候補者に対して組閣を命じていました。
 つまり、明治政府は、形式的には議員内閣制を取りながら、その実権は、維新の功労者、山県有朋や伊藤博文が握っていたのです。
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<財閥の成長> 
 しかし、藩閥政治と富国強兵策のなかで育成されていった財閥は、政党政治と結びつきながら巨大化していきます。
 当初の財閥はそれほどの資金力があるわけでは無かったのですが、富国強兵策が要請する財の生産や国際取引で優位性がある財の供給や国営企業の払い下げを通じて育成され、台湾領有・中国租借地確保・韓国併合・南満州権益確保といった対外権益の拡大にシンクロするかたちで大きくなってゆきます。
421px-Takashi_Hara_posing.jpg [3]
<政官財一体となって、私的利益を追求した大正デモクラシー> 
後に平民宰相と呼ばれて人気を博した原敬が、大正7年(1918年)に組閣した内閣は、日本初の本格的政党内閣とされています。
 しかし、当時の政党は根本的に言ってブルジュアジーの代表機関でした。つまり原内閣は第一次欧州大戦によって、膨大な成長を遂げた財閥の代表として組織されていたものです。
そして政友、民政の二大政党が曲がりなりにも二大政党らしく成り得る経済的基盤 はここにあったのです。
原内閣の四大政綱、即ち国防の充実、教育の振興、産業の奨 励、交通運輸機関の整備でした。 まず軍備を先頭とし、資本を発展させ、国内市場開拓と軍事的行動の為の運輸機関の確立。そしてその技術者養成としての教育の振興。これが画期的政党内閣の政策です。
 まさに絶対主義化に於ける資本主義発展の姿を表しています。高橋しかり、加藤しかり、官僚的政党時代は全て然りでした。

 また、政党時代と称される大正七年の原内閣から昭和六年の犬養内角迄、十二代を通じてそのほとんどの組閣は官僚出身者でした。云わば政党人と称する彼等のほとんどは官僚という学校を卒業して、次の政党というより高次の学 校へ入学するのでした。彼等にとって官僚は自己の出身校であり、友達であり、親戚であったのです。

 つまり、不平等条約を改正するため、近代国家の体裁を整えようと、西洋を手本にして、藩閥が権力を握ったまま憲法や議会制を導入したのですが、市場の拡大につれて、必然的に、議会を通して、主導権が商人や官僚に移っていったのが、大正デモクラシーだったのです。

 結局、戦前でもっとも平和な期間であったと言われる、大正から昭和初期にかけては、自由主義的価値観の広まり、政官財が三位一体となって私的利益の拡大を追求した時期であり、この体制が、昭和に入って、世界恐慌の荒波に飲み込まれて、ファシズムへの道を進んで行くことになったのでした。
<参考HP>
日本官僚史 [4]
晴耕雨読「戦前の軍需産業、財閥と戦争」 [5]

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