
三井呉服店本店総陳列場開場 第一日店前入口雑沓の光景(「写真の中の明治大正」 [1]より)
大正初期に、藩閥と財閥の力関係が逆転し、その尖兵が、第1次護憲運動であったといえます。そして、藩閥政治から政党政治への移行により、いよいよ金貸しが腕を振るう土俵が形成されたのです。http://blog.trend-review.net/blog/2009/07/001254.html [2]
なぜ、「藩閥と財閥の力関係が逆転し」たのか?
データを見ながら、もう少し掘り下げてみます。
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(※1・金額の単位は千円)
輸出額は、大正元(1912)年の5億2700万円から、大正15(1926)年には20億4500万円と4倍に増加。切っ掛けは一次大戦によって大打撃を受けた欧州の特需によるものです。
井上準之助は、『戦後に於けるわが国の経済及び金融』の中で次のように述べている。
「貿易で14億円、貿易外で14億円、合計28億円という金が、大正四年(1915年)から大正七年(1918年)までの間に入った。この28億円という金が、すなわちその後の経済界をつくった唯一の原動力であります。したがって、その後の財界の状況は、みなこの28億円という外国貿易及び貿易外の受取勘定から生まれているのであります。煎じ詰めるところ、この28億円という金が日本の受取勘定にまわったということが、すべての経済界の力であります」(※4)
大正9(1920)年には、バブル崩壊によって輸出額は一気に3分の2に激減するものの、それ以外はほぼ一貫して右肩上がり。輸入額は、6億1900万円から23億7700万円とほぼ同じ伸び率ですが、大正9年には輸入超過、つまり貿易赤字となります。
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(※3)
なお、この時代の主な輸出品目は、生糸、綿織物、絹織物、綿糸、水産物。国内的には重化学工業が成長していくものの、国内需要に回され、まだ輸出産業として成熟するには至ってません。
それでは、産業構造と生産を担う人口動態はどうだったのでしょうか。
大正8(1919)年には、いよいよ工業生産額が農業生産総額を上回った(中略)明治13(1880)年の日本の人口が、3,593万人なのに対し、大正9(1920)年には、総人口は5,596万人へと1.6倍化した。逆に農業従事者は、明治13年と大正9年では、人口は1,600万人から1,500万人へと減少していることから、増加人口2,003万人は、主として製造業500万人、商業・サービス業従事者700万人、合計1,200万人を軸とする農村から都市へ移住した人々とその家族である都市生活者の増加度合いが高いことがわかる。(※2)
この時代、都市の棒給生活者、すなわちサラリーマンの平均月収132円7銭に対して、農村の小作農の収入は117円58銭。(※2)東北で度重なった冷害の影響もあり、都市への流入はますます拡大していくことになります。
大正8(1919)年に工業生産額が農業生産総額を上回ったことからもわかるように、市場拡大によって、日本は産業構造の大転換期を迎えて世界経済へ組み込まれ、都市住民の増大と農村共同体の崩壊がはじまります。
大正デモクラシーで批判された藩閥政治とは、農業の生産基盤たる大土地所有を背景に支配を続けた旧支配体制たる「藩」から登場したものです。
そして、市場拡大で成長した財閥は、「護憲」を旗印にこの藩閥政治を打倒しようと目論み、成功します。
そうした時代にあって、農村共同体の成員は都市に出、労働者あるいは市場における消費者としての大衆に変貌を遂げていくのです。大正デモクラシーとは、新しい支配階級(金貸し)が旧い支配階級(藩閥)を打倒するための「錦の御旗」であったのです。
参考:
※1「戦史研究所~日本の輸出状況/日本の輸入状況」
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/yusyutu.htm [6]
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/yunyuu.htm [7]
※2「東京外国語大学学術成果コレクション~民衆文化から大衆文化への歴史的・物質的条件について」
http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/20021/1/jlc033006.pdf [8]
※3「社会実情データ図録~主要輸出品の長期推移」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4750.html [9]
※4「Matrix~大正金融史① 第一次大戦の戦争景気(1914~1918)」
http://blog.livedoor.jp/m3953/archives/50475705.html [10]