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日本支配の構造36 岩倉使節団~イギリス編② 市場拡大の原資をどうする?

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“産業革命”~1870年頃のロンドンの町の様子。
画像はこちら [1]よりお借りしました。
日本支配の構造34 岩倉使節団~アメリカ編 “洋上に昇らんとする太陽” [2]
日本支配の構造35 岩倉使節団~イギリス編① 金貸し支配国家 [3]に引き続き、「イギリス編② 市場拡大の原資をどうする?」 です。
イギリスがいかにして台頭したかは理解できた・・・日本が追従する方法もないではない・・・ここでの問題は、ヨーロッパ人が数千年に渡る“掠奪”と“騙し”によって蓄えられた市場拡大の原資に、後発の日本はどのようにして対抗するか?
尚、記事作成に当たっては、使節団に記録係として同行した久米邦武の『米欧回覧実記』に基づく「岩倉使節団という冒険」 [4]泉三郎著 からの引用を元にしています。
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■工業生産力も、それを生み出す科学技術も、資本力に規定される 

大久保にしてみれば、アメリカ、イギリスと回覧してきて、その富強の本はわかってきた、これに追いつく法もないではない。しかし、先立つものは金である
・・・大久保はこの旅で、造船所を見、蒸気車工場を見、炭坑、製鉄所、紡績、織布、ガラス、白糖工場を見た。四通八達した交通網や郵便電信網を見た。そして、その背後にいかほどの資本が投下されたかを考えたにちがいない。
・・・もし外国からの借金に成功しても元利の返済は厳しく、支払いが滞れば相手の思うつぼで、関税を差し押さえられ、土地をかすめとられ、独立の権を危うくすることになる。当時、日本では新橋・横浜間の鉄道工事が進み、その年の九月に開通したばかりであった。しかし、それも英国から100万ポンド(500万ドル)を借りてのことであった。

イギリスを中心とする当時の欧米諸国がこうした産業革命を為しえたのは、それまでの歴史においてイスラム世界、南米、インドなどから掠奪による原資を蓄えていたから。
それに対し、当時の日本は、「富強」を早期に実現するためには外国から借金をするしかなかった。・・・従って、欧米と対等に渡り合うには、いかにして自前で資金調達するか?が課題となる。これが、後に大日本帝国がアジアに展開する「大東亜通貨圏」=円基軸通貨体制 [5] lに繋がっていったと思われる。
また、「掠奪」「騙し」という欧米方式の対し、日本人特有の「勤勉」も、日本がどのようにして原資拡大を為したかの分析上重要な視点となる。
参考:なんで屋劇場『金貸し支配とその弱点』1~市場の起源、原資拡大の方法、その真実の姿 [6] 
■身をもって金貸しの騙し世界を体験 

・・・まことに嬉しからざる事件であった。というのは、一行が余裕資金を預けていた銀行が破綻してしまったからである。
・・・この事件、そもそもの発端は元長州藩士の南貞助にある。南は留学先のイギリスで英米で銀行を経営するアメリカ人ブルース兄弟と知り合い、そのすすめで銀行業務を手伝うようになった。ブルースが南を引き入れたのは、当時日本からの旅行者、留学生が増えて、その資金を扱うことが有利だと目をつけたからである。
・・・岩倉使節団が米欧を回覧するというニュースが入ると、ブルースは早速行動を開始した。大グループの大名旅行だから大金を持っているはずだ、是非それを預かれというので南をわざわざニューヨークまで派遣した。
・・・どうやら、ブルース銀行は最初から怪しげな銀行で、南貞助を含めて巧妙な取り込み詐欺にかかったというのが真相のようだ。
・・・「条約は結び損ない金とられ世間にたいしなんといわくら」

こうして、身をもって本場金貸しの騙し世界を体験
■大英帝国の繁栄は、僅か40年で為された・・・ 

さて、使節一行は百二十日に及ぶ英国滞在で何をどう見、学んだのか、久米はそれを総括して次のように述べている。
「当今ヨーロッパ各国、みな文明を輝かし、富強を極め、貿易盛んに、工芸秀で、人民快美の生理(生活)に悦楽を極む、その情況を目撃すれば、これ欧州商利を重んずる風俗の、それを漸致せるところにて、原来この州の固有の如くに思われるとも、その実はしからず、欧州今日の富庶(生活が豊かで人口が多いこと)をみるは、千八百年以後のことにて、著しくこの景象を生ぜしは、僅かに四十年にすぎざるなり」
今日の欧州各国の繁栄ぶり、人々の快美な生活ぶりをみると、それは欧州の商利を重んずる固有の風俗によるもののように思われるけれど、実はそうではなく、こうした事象が生じたのはごく最近のことで、それが顕著になったのは僅かに四十年のことだ、というのだ。
・・・確かに英国と日本の差は気が遠くなるほどだ。が、その歴史を振り返ってみれば、僅々四十年前はそれほど大差はなかったのではないか、とすれば、英国の富強の源を知り、そのからくりがわかった今、それを着実に学び摂取していけば、遠からず追いつけるのではないかとの感触を伝えているのだ。

先を行く西洋文明との位置関係を理解し、決して追いつけない相手ではないことを理解。
■市場原理の行き着く先⇒貧富の格差拡大、社会の崩壊 

・・・木戸と大久保は、その間をぬってロンドンに恥部ともいうべきイーストエンドの視察に出かけている。当時のロンドンの貧民窟は聞きしに勝るものだったらしく、アヘン窟などは妖気がただよって不気味でさえあったという。
英国は未曾有の繁栄の中にありながら貧富の差が激しく、「富むものは日に富み、貧するものは僅かに食べるだけの生活」をしていた。一行は各地で貴族や富豪の館に泊めてもらいその豪遊で優雅な生活ぶりを実見し、また一方で多くの工場や炭鉱で劣悪な環境で働く労働者の姿を見てきただけに、複雑な思いを抱いたのであろう。
久米はまたロンドンの裏面について、売春婦が多いこと、窃盗、強盗、詐欺が多いことも触れ、「百種の無頼みな集まる」とも書いている。・・・木戸、大久保にしてみれば、目指す文明開化のお手本が、一面でこんなにも醜悪な面をもつことに落胆したに違いない。 「いいところだけとれるか」「わるいところも一緒にはいってくるか」・・・

欧米流の市場原理は、必然的に格差社会を生み、貧困→社会の崩壊の危険性を孕む。その後の天皇中心の国家一丸体制、あるいは、戦後の一億総中流(富を均等に分配)を見るに、極力格差を生じさせずに、勤勉な国民の力を結集する日本流の市場拡大を実現したように思える。
また、単なる掠奪ではなく、膨大な投資により都市や生産力の整備を行う日本独特の植民地政策との関連も追求する必要がある。
以上、アメリカ編、イギリス編です・・・予期せぬトラブルなどもあり、ここまでで使節団は、なんと既に約1年を費やしています。
さて、旅はまだまだ続きます・・・フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア・・・・次回以降、引き続き使節団の旅を見ていきましょう。

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