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<大正時代>藩閥政治から民主化運動の背後にあったものは?

 大正時代から、昭和初期の歴史について、余り知らないということで、みんなで勉強しました。
 まず、大正時代というと、民衆運動が高まり、政党政治が発達した「大正デモクラシー」の時代と習った記憶があります。
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 皆で勉強していく中で、学校で習った歴史とは全く違った、大正時代の様相が浮かび上がってきました。
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ウィキペディアによると

 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。
 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このような藩閥による政治を批判し、憲法に基づく民主的な政治を望んでいた。そのような最中の大正元年(1912年)12月、第2次西園寺公望内閣の陸軍大臣・上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言する。しかし西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否した。すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。軍部大臣現役武官制により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺内閣は、こうして内閣総辞職を余儀なくされてしまった。
 西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第3次桂内閣を組閣することとなった。民衆はこれを、山県の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、国民も議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こったのである。
 桂の煮えきらぬ態度に怒り狂った国民は、国民新聞社や警察などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。
 大日本帝国憲法の下で、国民による運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。そのため、このことは大正政変とも呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなったのである。 (ウィキペディアより [2]  )

 なるほど、大正元年(1912年)に、元老の横暴に対する批判が高まり、初めて国民の運動によって内閣が倒されたということのようです。これが戦後の民主化の土台となったという非常にありがたい事件として習ったことを思い出しました。
 民主化が無条件で良いことだと教えられていた学生の頃はこれで納得していたのですが、最近、イラクなどで「民主化」を推し進めようとしているアメリカのやり方を見ていると手放しで信じることが出来ないのでもう少し調べてみました。
 大正時代のもう一つの特徴は経済の発展と財閥の支配力が強まったことにあります。 [3]  

 大正時代は経済が急速な発展を遂げ,日本が近代工業国としての基礎をつくりあげた時代である。
 第一次世界大戦後も好況はしばらくつづいたが,やがてヨーロッパ諸国が復興し,その産物が東アジア市場に輸出されるようになると,それとの競争に押されて日本の輸出は伸び悩んだ。貿易は輸入超過に転じ,1920年(大正9)には戦後恐慌がおこって,綿糸や生糸の価格が暴落した。ついで1923年の関東大震災によって京浜工業地帯は大きな被害を蒙り,日本の経済は大打撃を受けた。その後,電力事業や電気機械などの分野が発達したが,全般的には不況がつづいた。国際収支は再び悪化し,外国為替相場は動揺を深めた。このような経済的変動を通じて三井・三菱・住友・安田などの財閥は,金融・流通面から産業支配を強めていった。 

 このことを念頭に置いて、先のウィキペディアの記事を読み直してみると、気になる点があります。
 「怒り狂った国民」という表現がありますが、国民はなぜ、怒り狂ったのでしょうか。
 実は、「財界から軍閥の横暴に批判の声が高まり [4]」、新聞の批判が起こった [5] という背景があるようです。
 つまり、藩閥政治家と対立した、財閥が新聞を利用して、国民を煽動したというのが実態だったと考えられます。
 1912年というと、1839年の中国のアヘン戦争 [6]に危機感を抱いた、幕末の志士たちが、1868年 明治維新を起こし、1894年 日清戦争、1904年 日露戦争 を経て、日本がやっと近代国家として認められるようになった頃です。
 
 つまり明治維新から日露戦争まで、藩閥政治がうまく機能したおかげで、日本は、欧米の植民地にされずに、済んだのです。

特に、日露戦争に日本が勝ったことが世界に与えた衝撃は大きかったようです。
 

当時、欧米列強の支配下にあり、後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記されるなど、植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる。
日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。
いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れず、歴史的大事件であったことには変わりない。
ウィキペディアより [7] 

日本が日清戦争・日露戦争で勝利し、次第に欧米列強に匹敵するほどの国力を持つようになったり、或いは欧米諸国への黄色人種の移住が増えていくと、再び黄色人種に対する警戒感・恐怖感が高まり、黄禍論に結びついていったと云われている ウィキペディアより [8]

 白人の支配層である金貸したちは、中国やロシアに対して少しでも歯止めになればよいと考えていた日本が、日清戦争、日露戦争に勝って、列強の仲間入りするほどの力をつけてきたのは予想外で、驚きとともに、強い恐怖心・警戒感を抱いたようです。

 司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたように、明治維新から日露戦争までの日本の歴史は輝かしいものですが、その後は、太平洋戦争の敗戦まで惨憺たるものがあります。

 学校では、軍部が独走したため(=すべて旧日本軍のせい)と習ったのですが、幾つかの疑問があります。
 なぜ、日露戦争まで、世界を相手にあれほどうまく、渡り合った日本が、その後、太平洋戦争の敗戦まで、失態を重ねたと言われるのか。 また、戦前は新聞がこぞって戦意高揚の記事ばかり書いていたということも、事実のようです。 [9]

戦時中、大新聞が「大本営発表」を垂れ流しにし、国民の戦意をあおり、戦争の狂気に駆り立てたことは否定しようがないでしょう。
たとえば東京朝日新聞は国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけています。
敗戦後、みずから責任をとって歴史に幕を閉じた報道機関は国策通信社の同盟通信以外にはないといいます。しかしその同盟ですら、実態は共同通信と時事通信に分離独立したに過ぎません。

これらのことを考えると、大正デモクラシーなど、特に日露戦争後の日本の民主化の動きは、日本人の能力の高さに危機感・恐怖感を覚えた、欧米の金貸したちによる民主化(=愚民化)工作の結果だったという疑惑が浮かび上がってきます。        続く。

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