こんばんは~
ブログ初投稿です
よろしくお願いします 
昨日の3連荘記事に続いて
、大正期のメディア史をまとめてみました。
■新聞と政治権力のせめぎあい
■第一次世界大戦と関東大震災中の新聞
■新聞、通信社の進展
■マス・メディアの展開

写真はこちら [1]
からいただきました。
応援おねがいします 
ありがとうございます 
■新聞と政治権力のせめぎあい~シーメンス事件と白虹事件
1912年(大正元年)12月 第二次西園寺内閣が総辞職し第三次桂内閣成立しますが、長州閥出身である桂に対して『閥族政治を根絶し憲政を擁護する!』運動が盛り上がります。「時事新報」「日本」「大阪朝日」「萬朝報」の記者たちや、政友会、国民党らの政党人が中心となり、新聞・政党の連合大会が開催されました。
大正といえば大正デモクラシーを思い起こすのですが
、その担い手は実は新聞記者たちだったのですね!そんな中、シーメンス事件 1914年(大正3年) が起こります。
議会に海軍拡張案が上程されているときに、「時事新報」紙上にロイター電で「ドイツのシーメンス・シュッケルト電機製造会社」の東京支店員カール・リヒテルは、会社の重要書類を盗み、これで会社を恐喝して捕らえられ有罪の判決を受けた。被告の陳述によれば、会社は日本の海軍高官に多年贈賄していた」との報道が出されます。記者たちは各地で記者大会を開き、山本内閣を攻撃。当時は警官による記者殺傷事件も多発していたため、反政府熱がさらにアップし、山本内閣は崩壊。
(うーん、このようなパターン 🙄 今でもよく見かけますね)
これら桂・山本内閣に対する反政府運動は、国民運動としての憲政擁護運動と、言論機関としての新聞の典型的な結合を示したもので、いわば新聞が運動の中核をなしたといえます。
主な中心人物は、「朝日」の村山龍平、「大阪毎日」の本山彦一。
それに対抗して、白虹事件 1916年(大正5年)が起こります。
大阪朝日新聞の記事の中の『白虹日を貫けり』という中国の故事を引用しただけの一句を、「日」は天子を意味し不敬に当たるといちゃもんをつけ、記者らを起訴。大阪朝日新聞は廃刊の危機に。
この事件を契機として新聞の批判的機能は著しく低下し、新聞の性格にも大きな変化がみられる。その後の政党内閣に対しても言論の自由獲得のため抵抗は続けられたが、もはや経営陣が先頭に立って全社一致して反政府運動を展開することはなくなった。筆禍事件を境として、新聞は急速に企業化が促進されていった。
■第一次世界大戦と関東大震災中の新聞
第一次世界大戦で日本の新聞界は国際的に活躍しだします。新聞社に従軍が認められ、特派員が活躍するようになるんです。朝日新聞と大阪毎日新聞は豊富な資本と徹底した商業主義で東京系の新聞社をリード。朝日新聞はロイターのほか、イギリスの「ザ・タイムズ」と特約、大阪毎日新聞はUP(※アメリカの通信社)と特約し、多数の特派員と共に圧倒的な通信網をもつようになります。(実はこの時期の通信社(「国際」「電通」「帝通」)の活動はあまり振るわないんです。通信社については後述します。)
1923年(大正12年)9月 関東大震災が関東地方を襲います。印刷工場の被害が甚大で、数日間新聞の発行ができませんでした。社会のコミュニケーション機能が全く停止してしまったことと、大正8年の労働争議で新聞が休刊の時とは事情が違い大地震につぐ大火災で東京市民は狂乱のように逃げ回っていたので、その混乱の中から悪質な流言が発生します。そんな中政府も虚報に惑わせれてしまう。政府は各新聞社に対しては、朝鮮人の妄動に関する風説は虚報であること。朝鮮人に関する記事は特に慎重に配慮することを警告していたのですが、一方で戒厳司令部は各警察署に対し、朝鮮人の行動を警戒するような命令も発していました。
■新聞、通信社の進展
★新聞の企業経営化の進展
第一次世界大戦後の経済界は異常に膨張し、新聞社も広告収入の増加、発行部数の増加により、営利事業となります。大正中期には、各誌とも資本金を急速に増大させ、社屋建築や外国製の高速度輪転機を輸入するなど印刷機械の設備新設などが積極的に行われました。
大正7年 大正10年 大正15年
報知新聞 匿名組合 同左 110万円(株式)
中外商業新報 10万円(株式) 100万円(株式) 110万円(株式)
時事新報 10万円(合名) 500万円(株式) 150万円(株式)
都新報 個人 100万円(株式) 135万円(株式)
大阪朝日新聞 60万円(合資) 200万円(株式) 400万円(株式)
大阪毎日新聞 50万円(合資) 120万円(株式) 500万円(株式)
また、関東大震災を経て、経営不振の新聞社は淘汰され、有力新聞の数は減少し、新聞界の集中化傾向が強まります。特に海外通信網は、資本力のある「朝日」と「大阪毎日」が特化していました。
★通信手段の進化(興味深かったので詳細に掲載します
)
1922年(大正11年)には「電通」の同報電話(電通に送話機をおき、東京の各新聞社に受話機をおいて、1つのニュースが同時に各社に送られる装置)が開通します。大都市間の電話線は財界に独占されていたため、新聞社・通信社は逓信省と交渉し、1923年(大正12年)6月に「大阪朝日」「大阪毎日」「時事新報」「電通」が東京・大阪間の長距離専用電話を施設します。
一方新しい通信手段として伝書バト
も普及。陸軍の特別大演習を撮影したフィルムをハトに託して、当日の夕刊に載せることが可能になったそう。第二次世界大戦直後まで各社の速報の有力な武器であったんです!伝書バトも侮れません。
★大正期の2大通信社
明治期は「電通」「帝通」が通信社として強力であったが、大正期に「国際」と「東方」が生まれ、外電を扱うのは4社になった。
大正期に勢力をもったのは、「電通」と「連合」(国際が東方を買収してできた)です。詳しくその2社を見てみましょう。
国際通信社
APの東京特派員ジョン・ラッセル・ケネディの尽力によって生まれた通信社。ケネディは日本の有力者にロイター、APのような代表的通信社の設立を進め、高峰譲吉や澁澤栄一らの協力を得て設立された。当初はロイターの支配下にあったが、関東大震災後岩永裕吉はケネディを引退させ、2万ポンドのお金を払ってロイターを日本から撤退させた。東方通信社を買収し、APのような新聞社の組合組織による非営利的通信社をめざして新聞8社(大阪朝日、大阪毎日、東京朝日、東京日日、報知、国民、中外、時事新報)を組合員とする「新聞連合社」を結成。国際ニュースの供給源は、ロイター、AP,アバス、フォルフ、ステファニなど各匡の有力通信社。
電通
明治34年創立以来、無数の通信社のなかで群を抜いていた。大正期に入ると「帝通」の基盤を侵食していき、UPやフォルフのほか、イギリスのセントラル・ニュースやドイツのトランスオーツェンとも特約して外電を充実させた。台湾、朝鮮、満州、中国などの重要地点には独自の通信網を張り、確固たる地位を占めるにいたる。
面白いのは、地方紙が「電通」(政友会系)と「帝通」(民生党系)の系統で二分され、互いに割拠して争っていたということです。地方紙は全国紙と違って政党色が強かったようです。地元密着なので政党色が強く、かつ独自の通信網を持たないので通信社に依存していたということなのでしょうか?
各系列は以下のとおり
電通系:北海タイムス、神戸新聞、福岡日日、台湾日日、台南新報、台湾新聞、満州日報、遼東新報
帝通系:小樽新聞、名古屋新聞、神戸又新、中国民報、九州日報
■マス・メディアの展開
★雑誌
大正期は新聞の発展に呼応して雑誌の最も発展した時代。大衆雑誌(講談社創刊のキング、少年倶楽部、婦人之友など)は大量生産を経営の基準として営業が確立し、インテリ向け雑誌(中央公論、文藝春秋)は、新聞界に変わって、雑誌が思想界をリードするようにまでなります。
★映画の発達
洋画は大正初期はドイツ、イタリア、フランスの三国が主でしたが、第一次世界大戦後はアメリカ映画が独占。ユニバーサル、パラマウント、ユナイテッド・アーチスツ、フォックスの4社が日本に支社を創設し、日活、松竹の輸入以外に各支社を通じて映画常設館に自由配給を行い、日本映画市場に進出しています。
★1925年(大正14年)3月1日最初のラジオ放送
早くから新聞社は非常な熱意をもって、放送事業の経営を考えており、実験放送なども行っていたのですが、政府の意向でそれはかなわず、新聞社は輪番で放送局にニュースを提供することに留まります。
大正天皇が崩御されたとき、新聞号外が配達されたときには、ラジオを備えた新聞読者はすでに崩御のニュースを聞いて就寝していたそうです。新聞号外のニュース速報機関の花形としての時期は次第にラジオにとってかわられつつあったのですね。導入当初は新聞よりもラジオの検閲が厳しかったが、それでも視聴者数は増大していきます。
駆け足
で大正時代を見てきましたが、いかがででしたでしょうか 
次は昭和を追求したいと思います 