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日本支配の構造27~当時の日本人の意識状況『西洋文明のとらえ方』

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日本支配の構造26では「大東亜共栄圏」を扱ったが、どうして日本は欧米と対立していくようになったのだろうか。ことの発端は、西洋事情(福沢諭吉)にて欧米の脅威を認識したことからはじまる。当時の日本人の意識潮流はどうだったのか。
当時の日本人に大きな影響を与えたベストセラー作家だった福沢諭吉の著作からその意識状況を探ってみたい。
まず【西洋事情】は文久2年(1862)ヨーロッパに渡ったときの経験をもとに帰朝後3年あまりの調査研究を経て、慶応2年にその初編が刊行されたものである。
内容は西洋社会の制度や実態および理念などについての一般的な紹介に始まり、アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル各国の歴史や当時の現状の記述が、その中心的内容である。
75万部というベストセラーとなり、そのころ、およそ西洋の文明を説いて開国の必要を論ずる者は、朝野の区別なくこの『西洋事情』を読んでいたといっても過言ではない。 事実、徳川15代将軍慶喜は、この書を読んで大政奉還を決断したといわれている。

以下に続く
 


その後に書いた【文明論之概略】
明治8年の刊行で全6巻からなり数ある福澤の著訳書の中で最も体系的なものとされ、執筆にもかなりの苦心がはらわれた。
【文明論之概略】における福沢諭吉の西洋理解について松沢弘陽氏の論文を紹介する。
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・野心的な西洋諸国が自由貿易や社会制度を押しつけるとしても、その真の意図が「文明の移入」にあるのかそれとも「国益の拡大」にあるのかは、よほど注意してかからなければ判断はつかない。福沢が恐れていたのは、1840年代の清国、50年代のインド、でまさに起きつつあった、西洋文明に無防備なアジアの国々とイギリスやフランスとの軍事衝突が再現することであった。福沢の著述の眼目は『文明論之概略』にもある「日本には政府ありて、国民(ネーション)なし」(福沢、1875、p154)という現状を打破することで、西洋社会の理論は国民国家の創造のために活用されるのでなければならないのである。
西洋の社会理論の導入には熱心であった福沢が、それによる内面支配に反対の立場をとったことは十分な整合性を備えているといえる。
・福沢は西洋の社会思想、とりわけフランスの思想家トクヴィルから社会契約説を学び、それに心酔したことによって、かえってそこから西欧諸国による自国下層階級や植民地原住民への過酷な処遇といった現実に目を開かれ、ついには西洋文明そのものをも批判しうる視点を得たのだと考えられる。
😮 次に福沢のいう目的としての西洋文明とは何かについて考えてみたい。

第2章の冒頭で福沢は文明の発展の度合いは相対的なものであるとする。そしてまず、活発な気風をもち旧習に拘泥しない人々が工業や商業を盛んにしているヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国を最上の文明国と呼ぶ。ついで、農業は発展しているものの政治制度には不備が多く、また、古い習慣が残存しているため進取の気性に乏しいトルコ・清国・日本などのアジア諸国を半開の国とする。さらに、定住性がなく食糧の獲得が偶然によって左右されてしまうアフリカやオーストラリアなどを野蛮の国と称している。(略)。
福沢は、物質的な豊かさのみが文明というわけではないし、また心の高尚のみがそれに価するわけでもない、として両者ともの進歩を全体として文明と呼ぶのだとしている。
人間の知性と道徳性が進歩して行けばそれにともなって物質的な豊かさや精神の高尚さも高められて行く、そうした進歩の総体が文明なのである。したがって西洋の文明《だから》目的とするわけではなくて、それが人間の智徳の進歩の道筋にあって半開の国々よりも先行しているがゆえにとりあえずの目標としなければならないのである。
これは
国民全体が安楽で品位を保てるような国づくりをするために必要なのは、実質的にそれに寄与できるような学問、すなわち実学であるとする福沢の学問観とも一致している。このように福沢は西洋文明のめざす方向が智徳の進歩であることをはっきりと捉え、現実の西洋はその過程にあって欠陥も多々ある、という客観化を行っている。福沢としては、現実の西洋にどのような欠点があろうとも、『西洋事情』に文明の政治の条件として引用した、
★「自主任意 国法寛にして人を束縛せず、人々自ら其所好を為し、士を好むものは士となり、農を好むものは農となり、士農工商の間に少しも区別を立てず、固より門閥を論ずることなく、朝廷の位を以て人を軽蔑せず、上下貴賎各々其所を得て、毫も他人の自由を妨げずして、天稟の才力を伸べしむるを趣旨とす。但し貴賎の別は、公務に当て朝廷の位を尊ぶのみ。其他は四民の別なく、字を知り理を弁じ心を労するものを君子として之を重んじ、文字を知らずして力役するものを小人とするのみ」(福沢、1866、p290)
といった部分だけは絶対的に否定できない究極の価値として感ぜられたにちがいない。またこの根底ともいうべき部分があってこそ、それを基準にして当の西洋文明そのものをも批判することができたのである。(略)
彼の興味の中心は西洋諸国の人々の考え方、そしてその延長上にある経済や政治などのさまざまな制度にあった。おそらく福沢は生産システムを導入しさえすれば物質文明を日本へもたらすことは容易であると考えたのだ。

福沢諭吉は3度の渡欧をしている。 1度目は万延元年(1860年)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守の従者としてアメリカ合衆国へ渡る。なお咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。
2度目の渡欧は文久2年(1862)で【西洋事情】はそのときのヨーロッパに渡ったときの経験をもとに帰朝後3年あまりの調査研究を経て、慶応2年にその初編が刊行されたものである。 3度目の渡欧は慶応3年(1867年)には横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.にも到達した。彼はこの3度の渡欧で何を考えたのだろうか
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福澤の代表的な言葉で戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとした。女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した。

福沢諭吉は、日本の国益を考えると必須であるとは考えた。その上で物質文明偏重(市場競争社会の)結果としての戦争や貧困という矛盾までは、気づいていたが、結局は「独立自尊」を自分の思想の中心とせざるを得なかった。それはまさしく西洋思想の中心思想たる個人が原点という個人主義が言葉を換えたものであった。
福沢は様々な欧米の社会制度を日本に紹介したが、同時に個人主義も輸入したのだ。福沢の【西洋事情】【文明論之概略】に多大の影響を受けた当時の知識人はそれらをどう受け止めたていったのだろうか。

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