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日本支配の構造28 初代文部大臣が進める欧米化?! 森有礼って何!!

Arinori_Mori.JPG画像はこちら [1]から
薩摩藩士の五男に生まれた森有礼は、明治政府の初代文部大臣として日本の教育制度を確立しました。当時は、幕末に襲来した欧米列強の軍事圧力が強く、幕府も朝廷も「下手をすると戦争になって植民地化されてしまう」との危機感から、不平等な通商条約や取引を強制されていました。更に英米にそそのかされた薩長は、公家と結託して幕府を倒し、明治の治世を手にしました。その後も英米からの市場化要求は強く、その尖兵と思われる森有礼に今回は焦点を当ててみます。問題は日本の近代化とは何だったのか?です。


【森有礼の英国留学 ビッグ・リンカー達の宴2-最新日本政財界地図(19)より】 [2]
 
森有礼がスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であったトーマス・レイク・ハリスに出会たのは英国留学中のことである。森は新渡戸稲造や内村鑑三と並んで日本におけるキリスト教の受容に大きな影響を残し(略)。
森の英国留学は薩英戦争(1863年)以後、開国の立場に転じた薩摩藩が密航の形で送り出したもので、1865年4月に森を含めた薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡った。(略)留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」はグラバー商会所有の船であった。(略)グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していたが、薩摩留学生の学資もジャーディン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従って、実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・マセソン・グループであった。(略)
 
長州留学生は(略)ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り(略)ロンドンに到着している。(略)長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していった。(略)
薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたのである。(略)
   
【森有礼の人間像―森本貞子著「秋霖譜」に沿って】 [3]
(略)米国から帰って公議所議事取調べ係りになった森は帰国の翌年(明治二年)六件を建議したが、そのうちの「廃刀案」は、大久保は「士族の困窮しているときに誇りを傷つける」と猛反対したにも拘らず「廃刀は随意なること」と改めて公議所に提出したが、一同の大反対に会う。士族の怒りは甚だしく、暗殺の危険さえあった。森は苦悩し辞表を出したが、大久保は懲戒免職の処分を下した。(略)
 
鹿児島に帰って雌伏八ケ月で、東京から帰還命令があって、駐米弁務公使に任命され、ワシントンに公使館を開いた森は政界人と交際して、条約改正の下準備に励んでいた。(略)条約改正は成功せず、国力の充実が先と思い知った森は辞意を表明した。森は明治五年、不正確な日本語を廃止して英語に変える「国語廃止論」を主張して、米の言語学者、米人の文部省顧問、伊藤博文等の反対を受ける。帰国の途中森はロンドンに行き、進化論で高名な哲学者H.スペンサーに会って「宗教の必要」は同感されたが「国語の改変」より、国民の意識の進化があって初めて、それが言葉に表れると言われた。
帰国した森は(略)「明六社」を(略)発足した。(略)十二月十二日、森は外務大丞に任命され本省勤務となった。
森は(略)広瀬常(旧幕臣広瀬秀雄の長女)と婚約し、明治八年(略)「契約結婚式」を挙げた。証人兼司会の福沢諭吉が正面に座り式が進行した。森は明六雑誌に「妻妾論」で一夫一妻を主張し、蓄妾の弊風を攻撃した(略)
 
森は清国特命全権公使として明治八年十一月十日北京に単身赴任、(略)明治十二年十一月六日駐英公使になり、ロンドンに赴任した。(略)広瀬重雄(常の親族;筆者註)は記者、評論家で自由党員であったが、政府を転覆する計画を建てその軍資金を作るために強盗を働いた。ロンドンから帰った森夫妻に、広瀬重雄が検挙された事件が降りかかる。二男一女を儲けた常に森は辛く当り、常は家を出て離婚した。森はその後に長女安を養女に出し、岩倉の五女と再婚し三男を儲けた。
 
帰国して希望した文部大臣になった森は、「帝国大学令」「師範学校令」「教育勅語」等を制定して、国家主義者に変身し、地方を巡視して「国体」「国家主義」の講演を行った。明治二十年十一月二十八日伊勢神宮内宮に参拝した森は神宮の内陣の御簾の中に入ろうとして、宮司に留められて、御簾の前で参拝した。これが新聞では「ステッキで御簾を開けた」と誤報された。これが全国の不平分子、士族の憤激を買い、明治二十二年二月十一日憲法発布の日、森が刺殺される原因になった。
【森有礼の道徳思想について】 [4]
(略)森文政の本質は、明治初期の主知主義でもなく、それにつづく10年代の徳育主義でもない国家主義教育にあるとされる(たとえば、本山幸彦『明治国家の教育思想』思文閣、1998)。しかも彼の国家主義教育の実質的内容は実業教育であると実証的に分析されている。
 
森の徳育論がはっきりと示されているのは「自他並立」の思想をとく『倫理書』であろう。『倫理書』は、森の指示によって能勢栄が中心となり起草したもので、明治21年3月、中学校、師範学校用教科書として、文部省編集局から出版された書物である。だが、森の暗殺により、陽の目をみることはなかった。そこで、この『倫理書』を森の道徳思想の果実と捉え、ここに至るまでの彼の考え方を跡づけ、次にその特質について考察したい。
(略)自他の相互の助けあいが理想的社会の構築、善的進歩に不可欠であり、個々人がこうした他者尊重の精神を自覚してこそ、社会とのかかわりの中で「完全ナル人」になると森は認めたのであった。(略)個々人は、自己のためにすると同時に他人のために事をなそうと慮り、自他の並立をもって行為の基準とするとき、必ず道徳的に善良な社会が構築され、国家は繁栄し、公共の福祉を国民は享受することができると森は考えたのであった。
【その時歴史が動いた 「学校」誕生~初代文部大臣・森有礼の挑戦~】 [5]
 
(放送日 本放送平成12年11月22日(水)21時15分~21時58分)
 幕末、英米に留学した森は、新政府の外交官として精力的に欧米の教育制度の研究に取り組み、条約改正交渉の経験を通じ、列強と対等に渡り合うためには「国民」の創出、すなわち国家が主導で教育を行う学校制度を整備することが何よりも必要だと考えた。
 
一方、天皇の側近の教育係、元田永孚は、天皇の威徳で国民の統合を図る儒教主義教育を推進、「修身」を学校の中心科目に据えさせるなど、文教行政に大きな影響力を与えていた。長い外交官生活から帰国した森は、元田の儒教主義に真っ向から対立することになる。 明治18年12月22日、森は初代文部大臣に就任、翌年、「諸学校令」を公布した。
森の改革は、「学制」の欠点を踏まえ、義務教育による国民皆学、帝国大学を頂点にした能力主義による学校システムの構築、検定による教科書の質の向上、という独自のものだった。
 
森は、精神主義的な「修身」ではなく、実利的な知育体育を重んじる学校制度の充実によって、国民の統合を図ろうとした。
しかし、明治22年、大日本帝国憲法発布の当日、森は襲撃され翌日命を落とす。翌年、勢力を挽回した元田らは「教育勅語」を発布、以後森が築いた学校制度は皮肉にも戦前まで続く修身教育を支える装置として機能することになる
【一橋大学】 [6]
 
(略)森有礼は、明治五年、駐米弁務公使(いまの駐米大使に当る)として、南北戦争後のアメリカ資本主義経済社会の目覚ましい発展と商業教育の実情とをまのあたりにし、日本を一日も早く先進資本主義諸国のような経済杜会にしなければならぬと考え、そのためには、日本にも商業学校をつくり、(略)ニュー・ヨークの商業学校長で簿記学者のウイリアム・ホイットニーを日本へ招聘すること(略)を建言したが、容れられず、(略)この窮状を救ってくれたのは、富田鉄之助、渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、大鳥圭介、大倉喜八郎、福地源一郎、大久保一翁、箕作秋坪たちであった。(略)
 
開設されてから僅かニカ月後の明治八年十一月、森有礼は駐清国全権公使を拝命し、北京へ赴任した。管理人がいなくなったので、学校は当然消滅する運命にあった。しかし、渋沢栄一(東京会議所会頭)や益田孝(三井物産の創設者)らの尽力によって、束京会議所が管理を引き受けてくれた(略)
 
府会議員たちは貧しい東京府財政の審議過程で「(略)そのような高級な学校は東京府にとっては文字通り無用の長物であるから、管理運営費を出すべきではない」と強く主張し(略)明治十四年の東京府会は、票決の結果、(略)管理運営費の全額削除を決定し、東京府知事名をもって、明治十四年七月二十九日付で、東京府立商法講習所の廃校を公表した。しかし、今度もまた、渋沢栄一が救いの神となって、(略)農商務省(現在の農林水産省と通商産業省)から暫定的に補助金を貰うことが出来るようにしてくれた。
【松岡正剛 千夜千冊 イ・ヨンスク『「国語」という思想』1996 岩波書店】 [7]
(略)森がイエール大学の言語学者ホイットニーに「日本を英語の国にしたい」と言って叱られたというのは、正確ではない。森は明治5年にホイットニー宛ての手紙に、「商業民族であるべき日本」が「急速に拡大しつつある全世界との交流」をすすめるためには「英語を採用することが不可欠」だと書いたのだ。日本語を廃止したいとは書いてはいなかった。
 
そのかわり森は、「日本の言語のローマ字化」を提案し、かつ「日本国民の使用のために英語からすべての不規則性を取り除くこと」を主張して、簡易英語の普及を訴えた。(略)
 
上田はこれらを一蹴して、漢語漢文に依拠しようとする者も洋学に依拠して英語に走ろうとする者も指弾すると、一気に「厳密なる意味にていふ国語」の確立に向かって邁進していく。加藤弘之を委員長とする国語調査委員会は、上田の進言にもとづいて漢字を1200字に制限し、発音に近い「棒引き仮名づかい」を採用すると、余勢をかって仮名字体の統一に踏み切っていった。(略)
 
そうしたなか、日本にはもっと特異な人物もいたということをイ・ヨンスクは指摘する。それは北一輝である。イ・ヨンスクは北の『国家改造案原理大綱』の「国民教育ノ権利」に、次のような一文があることに注目する。「英語ヲ廃シテ国際語ヲ課シ第二国語トス」というものだ。この「国際語」というのが実はエスペラント語のことだったのである。
簡単に纏めると、森有礼は、イギリスとの戦争に負けて開国に逆転した薩摩藩が、ロスチャイルドの支援で彼を米英に密航させて以来、欧米化に取り付かれ帰国後かなり急進的に欧米化(西洋式婚姻や市場化のための学校開設、西洋個人主義の流布、日本の言語のローマ字化)政策を進めて、最後は国粋主義者に暗殺されます。
 
こうした人物は、英米資本家には極めて都合が良かったのだろうと推測されますが、彼の敷いた学校制度はその後大した変更もなく現在に至っています。
又彼のような従英(米)派と対極にある天皇親政派が対立する中、岩倉、大久保、伊藤ら政府の要人は台湾、朝鮮、満州進出へと踏み込んでいきます。果たしてこれが誰の意図なのか?更なる検討が必要ですが、欧米化の急進派(森有礼)が政府内にいたことは事実のようです。そして当時岩倉ら政府使節団の面々は何を考え、どうしようとしていたのでしょうか?

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