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麻生とは何者か(2)~麻生太郎の立ち位置はどこ?~

(1)で麻生家のバックボーンを探りました。
彼の自信はどこから来るのか?
いかにもボンボンの安部や、官僚トップのような福田とは明らかに違います。
麻生家が裏筋にも繋がる実力者だったろうことが解りました。
(1)でも述べましたが、家系を見て行きましょう。
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画像は赤坂経済新聞さんから
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世界四季報さん http://4ki4.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_8cc0.html [1]から
もの凄い家系ですね。
政治家の血筋の濃さだけでなく、皇室とも、日本医師会の武見会長とも繋がっています。
麻生グループは筑豊の病院から出発した医療グループも経営しており、麻生家の血縁による勢力拡張の戦略には凄みがありますね。
血筋や裏筋だけではありません。
るいねっと うららさんの投稿からhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=204422 [2]

玄洋社の前身である政治結社『向陽社』が結成されたのが明治十一年(1878年)秋。翌年『玄洋社』と改名され、初代社長には西南戦争で西郷軍に参加して生き残った平岡浩太郎が就任した。
その頃の我が国では、西南戦争後の自由民権運動が日本全国に大きなうねりとなっていた。玄洋社も自由民権運動、不平等条約改正案などを巡り沸騰する世論の中で、平岡をはじめ頭山満、箱田六輔、来島恒喜、進藤喜平太、内田良五郎らの活躍で全国的に名を知られる存在となっていた。
・・・
大正2年(1913年)2月、孫文が訪日し福岡に来訪した際、安川敬一郎邸に宿泊後、博多聖福寺にある平岡浩太郎の墓参、次いで玄洋社を訪問。歓迎の晩餐会を主催したのは安川敬一郎、貝島太助、麻生太吉ら筑豊の炭鉱経営者たちである。
このように筑豊炭鉱こそは、玄洋社をはじめとする福岡の志士たちの活動を支えた舞台であった。在野団体だった玄洋社が軍資金不足に陥らなかったのは、平岡の経営の才能に負うところ大である。孫文の活動資金にも充てられ、また頭山満も同じく筑豊炭鉱の鉱区売買によって活動資金を調達していた。

日本の血が滾っているとき、当時最強とも言える政治結社に繋がっているのです。
現在は麻生VS小沢の構図が喧伝されていますが、本当は彼らの立ち位置はどちらなのでしょう?
彼の自信は、おそらくそのバックボーンにあります。
少なくとも日本国内には怖いものがありません。アメリカ資本に操られる必要も無いということです。
しかし、家系を見れば、純粋な民族派と言うには厳しい。
るいネット持国天さんの投稿から
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=204437 [3]

 奇人変人の小泉に匹敵する面の皮の厚さでは、麻生総理だろう。打たれ強さでは、小泉もはるかに及ばない。
 それは彼の出自による迫力であって、政権を投げ出さない麻生総理の特異な性格は、彼の出自から推測すれば頷ける。
 波乱万丈の明治の黎明期に突如として旗を揚げ、石炭採掘の大掛かりな利権を足場に、富国強兵の私権時代に力を蓄えて生き抜いてきた麻生一族・130年の凝縮が彼の身上ではなかろうか。
 明治維新の渦中で権力を手にした政治人脈から旧大名・華族との姻戚関係まで、極左極右の革命家から勃興する三井・三菱財閥まで、深く広く渡りを付けて力の基盤を培ってきている。
 明治維新から日清日露戦争に始まり、満州事変から敗戦まで近代日本の権力の根底に繋がった彼の出自から、様は怖いもの知らずが彼の心情ではなかろうか。
 独特の面の皮の厚さを持つ彼が、保守・自民党の終焉期に登場したことも意味があろうと思う。

命をとられるような心配をする必要は無い、と考えればマスコミなんぞ屁でも無いというのが麻生の感覚でしょうか。
ここにきて、支持率が上がっています。
総理となった時に言われたように、小沢との対決はそう簡単に負けないかもしれません。

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