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東南アジア諸国と日本 ~マレーシア編 その1~

『東南アジア諸国と日本』シリーズの第4段です。(前回は、インドでした。)
今回は、東南アジアから少し外れますが、マレーシアを取り上げます。
マレーシアといえば、やはりこの人でしょう!
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そうです、1981年7月16日から2003年10月31日まで、22年間マレーシアの首相を勤めたマハティールです。
マハティール・ビン・モハマド(1925年7月10日)は、マレーシアの政治家、医師。マレーシア第4代首相。マレーシアの首相の中では最長の22年を務め上げました。開業医から政治家に転じ、長期に及ぶ強力なリーダーシップにより、マレーシアの国力を飛躍的に増大させた方です。
マハティールといえば、欧米諸国ではなく、日本の経済成長を見習う「ルックイースト政策」が有名ですね。では、「ルックイースト政策」を通じて、マレーシアはどのように発展したのか?それを追求していきます。


●ルックイースト政策とは? (※満退者の素浪人日記 [1]から引用しています。)

マハティールの主要な政策とその成果を(とりわけ日本人が)論じる場合、なんといっても注目の的になるのが、ルックイースト政策だ。「戦後の日本や韓国に見習って経済発展を進めよう」というこの政策は、具体的にはどのようなものであり、その成果はどう評価されるのだろうか。
そもそもマハティールと日本とのかかわりであるが、マハティールが政界に進出する以前、眼科医をしていた頃に研修で日本に来たのが、最初の日本との繋がりといわれている。その後、政治家となって彼の政策の一端を担うようになったのは、マレーシア食品工業公社の会長という閑職へ「左遷」されたのがきっかけになったようだ。同公社のパイナップル缶詰工場で、三井物産の鈴木一正氏とタッグを組み、まったく売れなかったパイナップル缶詰を輸出品にまで仕立て上げた。こうした経験から、マハティールは日本に見習うことの利点に気づいたようだ。1981年7月に首相に就任したマハティールは、その年の秋からルック・イースト政策を打ち出すようになった。ルック・イースト政策は、主に人造り、経済面、経営面などに焦点を当て、こうした分野に日本式のやり方を導入しようという政策である。この発想を基に様々な計画やプロジェクトが実施されたが、主なものとその目的を挙げると、以下のようになる。
○人造り: 学生による日本への留学、日本企業での研修、日本語を中学の第三外国語に指定 → 日本人的な感覚、すなわち勤労や倫理観を身に着けることを目的とする
○経済面: 国民自動車・オートバイエンジンの製造に日本企業が携わる、鉄道やビルの施工・開発 → インフラの整備・充実とともに、技術移転を目的とする
○経営面: 日本式商社の設立 → 日本的企業運営・販売戦略のノウハウを身につけることを目的とする
マハティールは、1983年に来日して当時の中曽根首相と会談、ルック・イースト政策への協力を訴え、これに中曽根首相も応じ、同政策は順調な滑り出しをみせた。
しかしながら、早くも同年にマレーシア国内でルック・イースト政策に対する批判が起こっている。批判の主な論点は、(1)技術移転が不十分、(2)日系企業は自国の管理職を多く登用、(3)現地の雇用促進に貢献せず、(4)企業がKLに集中して地方分散に貢献していない、(5)日本人はマレーシア文化への関心が薄い、といった点であった。つまり、「地元の企業や人々は潤わず、一部の政治家と日本企業だけが利益を独占している」と映ったのだ。これは、特にチャイニーズ系から不満が起こったようだ。
経済面だけでなく、人造りに関する分野でも問題が発生した。日本への留学・研修は1984年にスタートしたが、翌85年よりマレーシア国内が不況となり、学生の就職難が起きてしまった。本来、日本への留学生はマレーシア帰国後、政府の中間管理職になることを期待されていたものの、肝心のマレーシア政府が採用を控えざるを得なくなった。そのため、在マレーシアの日系企業が留学生を引き受けた。つまり、結果から見れば、「マレーシア政府が日本の企業の社員となるべき人材を国費で育てた」ことになり、「国家の発展のために日本で学ぶ」という留学・研修制度本来の趣旨から離れてしまったのである。
さらに、日本の総合商社の形式を取り入れた、1983年創立の「マレーシア海外投資会社」が、早くも86年7月に倒産、経営者が逮捕される事態に追い込まれた。倒産の理由として、(1)そもそも経営がいい加減だった、(2)組織力がないところへ形だけ日本式を導入してしまった、(3)能率第一主義である日本のやり方はマレー人にはなじまなかった、といった点が指摘されている。
ルック・イースト政策の批判が高まる中、日馬経済おいて更なる大きな問題が発生した。それは1985年のプラザ合意によって誘導された国際的な円高によって、マレーシアの円借款による負担が急増したのである。特にプラザ合意以降の3年間で、マレーシアは円高差損によって8割の負担増が起きたため、日本政府は金利を引き下げを実施、マレーシアサイドからの「円借款からODA援助に切り替えてくれ」という要請を拒否した。結局日本政府は、1990年に例年の3倍に当たる600億円もの巨額の円借款を実施せざるをえなくなった。さらに、日馬間の貿易不均衡(日本はマレーシアから物品を積極的に輸入しなかった)も相俟って、90年代以降の日馬間の経済交流は、80年代初めに比べてトーンダウンしていくことになる。
このように、ルック・イースト政策の個別案件をそれぞれ見ていくと、必ずしも全てが上手くいっていたとは言いがたいものがある。もっとも、経済不況と帰国留学生の受け入れ先や、プラザ合意後の円高と円借款問題のように、問題の本質がルック・イースト政策そのものにあるわけではない事例もある。ただ、そうした積み重ねによって、マハティールの心が日本から離れていったのも事実のようで、1990年代になると、マハティールは「ルック・イーストのイーストには、中国や台湾も含まれる」と発言、日本の相対的な位置付けを低下させ、さらには「バブル崩壊という日本の失敗を反面教師とすべき」として、日本を積極的に見習おうという姿勢にもかげりがみえるようになった。

 
マレーシアは、ルックイースト政策を通じて、1971年から1990年代後半にかけて、原材料の生産から電化製品を中心とする輸出型経済成長へ転換する事に成功しました。これは日本の大企業を参入させ、その力で押し上げてきた成果です。しかし日本のバブルが崩壊すると、マハティールは「ルック・イーストのイーストには、中国や台湾も含まれる」と発言するなど、日本への収束力が衰退していったと思われます。
現在のマレーシアは中国との交易を強化していることから、戦略としては、「目先の利益追求を図るべく、その時代の大国の企業を参入させることで、国内の雇用をつくりだし、大国依存型の経済成長を遂げようとしている」ことが明らかです。
マハティール首相は、今後の発展の方向性を示すものとして、「ビジョン2020」(1991~2020年)があり、2020年に先進国の仲間入りをするという目標を掲げていますが、外国投資流入の減少などの重大な環境変化に直面し、国内に成長の源泉を求めるという方向性が打ち出され始めています。
「マレーシア経済にとって、依然として外国投資は主要な役割を果たしているが、海外からの投資は減少している。代替的な手段として、国内経済を活性化させ、経済発展により多くの貢献をしてもらう必要がある。」(MITI投資政策・製造業関連サービス部シニアダイレクターオスマン氏 [2])マレーシアを代表するシンクタンク、マレーシア戦略研究所のソピー会長も同様の見方をしています。
金融危機を向かえ、世界貿易が衰退している現在、依存型の経済政策ではこの危機を突破できないことは明らかで、マレーシアもインドのように自立型の社会に転換する必要があります。転換するために、マレーシアがしなければならないことは、一体何でしょうか?
次回の投稿で、それを明らかにしていきます。お楽しみに♪

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