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自民党システムへの反逆者、小沢一郎

やまない政治不信は麻生内閣支持率を20%を割り込むほどに低下させました。
「麻生太郎首相と民主党の小沢一郎代表のどちらが首相にふさわしいか」の世論調査でも、小沢が麻生を逆転する現象が出てきています。
党内からは「麻生氏では選挙は戦えない」という声があがり、マスコミからは「問題発言や失言が相次ぎ、首相としての資質に問題がある」という報道です。
支持率低下の原因を麻生個人にあるとする論法ですが、本当にそれだけなのでしょうか。
政治不信の背景にはもっと注目すべき点=自民党システムの根本的な行き詰まりがあるように思います。
長期政権を維持してきた自民党というシステム [1]」に関しては11日に紹介しましたが、今日は小沢一郎という政治リーダーの行動を読み解くことで、自民党システムという政治の仕組みがいかに変容してきたかを見ていきたいと思います
少し前置きが長くなりましたが、本題「自民党システムへの反逆者、小沢一郎」に入っていきます。
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『自民党政治の終り』(野中尚人著)より

小沢一郎とは、自民党にとってどういう存在だったのだろうか。小沢は。1980年代の終わり、自民党システムが完成した時期にその頂点に立った人物である。しかも、自民党の支配体制が本格的に動揺し始めた90年代の初期にも主導権を握ってその舵取りを行った。
しかし、小沢が小選挙区制の導入を柱とする政治改革を強引に推し進めた理由は、なかなか説明しにくい。中選挙区制と従来型の派閥システムは、小沢自身にとってその成功の土台であり、きわめて好都合な制度のはずだったからである。それほど有利な仕組みを自ら壊そうとしたのは一体なぜなのか。小沢の政治行動にまつわるなぞの核心はここにある。

小沢は長期にわたって自民党システムの中枢にいたゆえ、自民党システムの限界を知り、その変革の必要性を強く感じていました。談合と裏取引の国対政治=自民党政治の問題を的確に捉えていたということです。
69年の衆議院議員初当選から田中を師事し続けた小沢でしたが、85年に創政会結成、87年経世会結成を経て田中と決別します。
実の息子のようにかわいがられ、強大な影響を受けた田中との決別の理由は、いったいなんなのでしょうか。
小沢は田中について次のように述べています。

「田中という政治家は戦後でなければ総理にはなれなかったという意味も含めて、戦後政治の落とし子だったと思う。・・・理念の先行よりも、現実の利害の調整、そこに卓抜した先見性があった。その意味では、仕組みそのものを変えようとか、制度的にこれはいけないからこうあらねばならないとか、そういう意識は薄い政治家だった」

田中のおやじから始まって金丸さん、竹下さんと、みんなそれぞれ本当に教えられたし、・・・けれども、私に言わせるとみんな反面教師ですね。・・・要するに田中先生は、戦後体制の中の1人だったということです。その時代はいいんです。・・・けれども、体制を壊そうとした人ではない。僕は体制そのものを変えようとしている。だから、僕にとっては反面教師なんです」

小沢が感じた戦後政治の枠組みの限界。体制変更、政治改革の決意がうかがえます。
89年には参議院選挙で自民党が惨敗を喫し、小沢は危機感を抱きます。そして、社会党との馴れ合い国会運営に区切りをつけ、自公民協調路線へと舵を切ります。
その際、社会党を牽制した小沢は次のように述べています。

政治の構造は変わった。参院の与野党勢力逆転で今後十年間はこうした「衆参ねじれ」の状況が続く。従来の国会対策の手法はやめ、オープンの場で各党が責任政治を行うという新しい国会運営のあり方を確立しなければならない」

小沢はこうした圧力変化を受け、竹下とは経世会という権力の中枢を共同で担いながらも、政治観の相違、手法の相違から対立姿勢を強めていきます。そして現実の政治の基礎ともいうべき選挙制度の選択をめぐる対立は、経世会内部の主導権抗争(小沢-金丸ラインVS竹下勢力)へと発展していきます。

従来のボトム・アップ型の意思決定と派閥の仕組みに乗っかる竹下と、そうした仕組みを解体し、さらには自民党という枠組み自体まで乗り越えて日本政治全体の改革を志向する小沢とが、本質的に相容れない考え方をとっていたことは明らかである。

この時期、小沢が推進しようとしていたもうひとつの重要課題が政治改革です。
89年に幹事長に就任した小沢は、竹下内閣時代からの懸案であった政治改革を、自らのイニシアチブで「小選挙区制の導入」へと動き出します。
しかし、本音は現状維持の与党と強い反対の立場をとる野党を前に、政治改革法案のとりまとめは至難の業でした。そして94年、非自民連立政権の細川政権(小沢が与党の中核)によってようやく決着がつけられました。
94年に小選挙区制の導入が決まった後、小沢の戦略は二大政党を軸とする政権交代システムを想定し、自民党に対抗する巨大政党を作り上げ、そこで主導権をにぎることでした
しかし細川政権崩壊後は失敗が続き、97年新進党の解体で小沢のもくろみは完全に頓挫してしまいます。

しかし、歴史の歯車は回る。今や民主党は、自民党に取って代わらんとする対抗政党へと成長した。新しい選挙制度が、小沢の構想したような効果をもたらしてきたと言えるだろう。そして、民主党内部の混乱の結果、小沢自身が自民党に対抗すべき大政党の党首に再び就くことになったのである。最後の戦いに臨む小沢は、2007年7月の参議院選挙で大勝利を収めた。政権交代を悲願とする小沢の執念が実ったとも言える結果であった。

自民党政権は続くのでしょうか、それとも政権交代がおこって民主党政権ができるのでしょうか。
日本の政治に今何が起ころうとしているのでしょうか。

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