『内田樹の研究室』「100年に一度の危機らしいけど」 [1]からの引用。先日も「女たちが消費社会から共認社会への転換を始めた」 [2]で引用させていただいたが、内田樹氏の記事は切り口が面白い。
いつも応援ありがとうございます。
今年の漢字(というイベントはいつから始まったのかしら)は「変」だそうである。
「変」が「あなた、変よ!」という意味の「変」なら、私も同感である。ただ、「変」が「変化」ということを意味しているとしたら、私はそれにはあまり同感できない。
世間のみなさまは(本邦の総理大臣も)「100年に一度の危機」というような言葉を軽々にお使いになるが、ほんとうに「100年の一度」というような地殻変動的社会構造の崩落現象が起きているとご当人が思っているなら、もう少し「これまでとは違う」対応をされているはずであるし、言葉づかいもずいぶん違ってよいはずである。
でも、私の目には「まったくいつもと同じ」ようにしか見えない。
ボーナスが減りそうだから買い控えをする。売り上げが減ったので非正規労働者を馘首する。貸し剥がしをする。ばらまき財政出動をする。
どれも見慣れた風景である。数年前にも見た覚えがある。
この風景のどこが「100年に一度」なのか、誰か教えていただきたい。
この事実から演繹できる可能性は二つである。
一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』などではなく、『よくある危機』にすぎない」
もう一つは「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」
前者であれば、別に浮き足立つ必要はない。
後者であれば、いよいよ浮き足だってはならない。
腹を据えて、いったい何が起きているのか。被害はどの程度で、このあとどこまで拡がるのか。使えるリソースは何が残っているのか。それをどのように分配するのか。誰がその「さじ加減」を按分するのか。その適切性とフェアネスはどのように担保されるのか・・・といった一連の問題が考察されなければならないはずである。
しかるに、私が見るところ、そのような仕事はいま我が国要路の人々はどなたもなされていない。
少なくとも、そのような仕事が必要であるということは誰もアナウンスしていない。
総理大臣は解散総選挙もしないし、挙国一致的な救国政権を作る気もなさそうである。
「このまま居座る」というのは「この危機は『いつものルーティン』によって処理するのが最適である」という政治判断をすでに彼が下しているということである。
それは彼が被害評価を「きわめて軽微」と理解しているということを意味している。
しつこく言わせてもらえるけれど、「『100年に一度の危機』なので、いつも通りに処理します」という命題は誰が読んでも論理矛盾をきたしている。
このような論理矛盾を犯して平然としている政治指導者を頂いている国は知的にはかなり危機的な水準にあると判断してよろしいであろう。
というわけで、私は「今起きている変化は『100年に一度の危機』なのであるが、みんなどうしていいかわからないので、『よくある危機』のときと同じようなルーティン的な対応をしている」というふうに現状を理解することにしている。
ほんとうに日本国民のみなさんが「100年に一度の危機」だと思っているなら、同胞諸君は個人金融資産1500兆円の一部なりとも今このときに吐き出して、企業を救い、馘首される労働者たちに雇用を確保すべきではないのか。企業は下請けの切り捨てとか雇用調整というような「いつも通りの対策」とは違う手だてを考え始めるべきではないのか。
そういう「いつもと違うこと」をするのが「変化」ということではないのか。
「100年に一度の危機なのに、どうしていいかわからないのでルーティン的対応をしている」という内田樹氏の指摘は尤もである。
どうしていいかわからないのは、答えがないからである。
『るいネット』「答えがないので、課題捨象」 [3]「全てのネックは答えを出せないという一点にある」 [4]
今回の金融危機を契機に私権原理が終焉する、つまり過去5000年の文明史を覆す大転換が始まった。私権時代という狭い枠組みの中で獲得されてきた知識や理論では、とうてい突破口は見つけられない。そんな古い理論や思想にしがみついているから政治家も官僚もマスコミも答えが見出せずにどうしていいかわからないのである。
転換期とは定型課題(既知課題)は減る一方で、非定型課題(未明課題)が増える一方ということだ。にもかかわらず、政治家・官僚・マスコミがやっていることは何か?
これまでの定型課題の繰り返しである。
政治家や官僚は、不況になったら景気対策⇒財政出動であり、マスコミは政治家や官僚批判。これは定型課題そのものではないのか。
未明課題に対して定型課題を繰り返すということは、思考停止そのもの(無能の極み)である。これは日本だけではない。アメリカのオバマ新大統領も「CHANGE」と叫ぶ割には、打ち出す政策はこれまでと何ら変わりがない。
こう考えるしかないだろう。彼ら統合階級は口では「改革」や「CHANGE」と叫びながら、実は変化など望んでいないのだ。それは彼らにとって社会よりも自らの保身が大事だからである。本当に変化しようとすれば、彼らが依拠する旧観念が無効であること、彼ら自身が無能の極みであることを認め、その特権的身分を手放すことになるからだ。
それに対して、国民は「変化」こそ口にはしないが、行動を静かに、かつ急スピードで変化させている。
「小学生の子を持つ親の意識変化~私立中学受験バブルの終焉」 [5]
「女たちが消費社会から共認社会への転換を始めた」 [2]
口では「変化」を叫びながらその実、保身第一(御身大事)で変化を望まない統合階級と、無言のうちに変異行動を開始した大衆との断層がますます大きくなっていく。これが2009年の意識潮流の基調であろう。
(本郷猛)
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