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日本支配の構造16”天皇の蓄財=日本の国家戦略その1”

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「日本支配の構造」シリーズでは、これまで明治維新~戦前の頃までの政府要人、国際金融資本と国内資本などについて追求してきましたが、横糸を紡ぐような現象として【天皇の蓄財】について調べてみました。
【一体何故天皇に蓄財させたのか?】
ここに引用している文章は天皇の蓄財を視点にして蓄財=悪というように書かれていますが、それは個人主義に毒された感覚だと思います。

これらを調べていて実は天皇家の蓄財というのは日本の国家戦略といえるのではないかと思い至りました。(その①~④)
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では続く 


◆①皇室制度から皇室財産へ〔政府財産から皇室財産へと政策的に移動〕

「しらす」型統治論による天皇統治の正当性の証明は、天皇と皇室が純粋に公的存在であることを前提としていたから、現実には井上の構想とは反する進行をたどる。
まず、井上の反対にもかかわらず、1885年(明治18年)に宮内省に御料局が設置された。その前後から政府所有の有価証券(日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船などの株券)が皇室財産に移され、その結果、皇室の「御資財本」は1873年度末には約193万円だったのが1889年には975万円にまで増加した。(略)
・御資部は預金、公債や社債・株券などの有価証券の運用をはかるところで、その資産額は1890年度には1300万円にも及び、五年後には2100万円以上になっていた。そして日清戦争で日本が得た清国賠償金3億円のうち約2100万円が整理公債の編入というかたちをとって皇室経済に編入され、御資部の資産(財本)額は一躍倍化、1907年度には1億円を突破していた。このうちの多くは株式・社債であり、1890年度には約860万円で御資部資産全体の66%、1895年度には約1450万円で全体の69%を占めていた。1899年度の全国102社の5000株以上の大株主98名が所有する株式総数の約11%、約23万株を皇室が所有しており、これは日本最大のブルジョワジーである三菱財閥の岩崎家の約19万株を超えていた。こうした所有株式は銀行・船舶・鉄道に集中しており、皇室は日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船の筆頭株主であった。

(中村政則「階級構成」、大石嘉一郎編「日本の産業革命」)。)
◆②〔戦後の皇室財産は評価額37億円〕

因みに戦後の皇室財産に関して本書では、
「政府とGHQの間で憲法改正案が検討されている1946年8月5日、GHQのケーディス大佐(民生局次長)は、法制局長官らを呼び『我々としては、皇室財産の問題は、主権の所在の問題とともに新憲法の最も重要なる点と認めていると語った。(外務省資料『秘/衆議院憲法小委員会の憲法草案仮修正案に関し、ケーディス大佐等と会談の件〔第1回〕』)(略)
これに対して衆議院では世襲財産収入は皇室に帰属すべきだとという修正案が出されたがGHQの同意を得られず、結局次のように修正して可決する。
すべて皇室財産は国に属する。すべて皇室の費用は、予算を計上して国会の議決を得なければならい。(略)
では当時、皇室財産の内容はどうであったか。
GHQからの指令に基づき宮内省は皇室財産を報告し、GHQは1945年10月皇室財産を公表した。(略)
この皇室財産の国有化は、1946年10月に成立した財産税を翌年3月に皇室財産に適用するという形で行なわれた。インフレの進行に伴い。財産申告時には評価額が約37億となっていたが、その9割にあたる約33億円が税額となり、納税は現物納という形で行なわれて国有財産とされたのである。

◆③〔国民の全財産と大差ないほどの皇室の財産を大至急設定し、それによって陸海軍の経費はもちろん政府の維持費まで支弁するならば、どのような国会の攻撃があっても大権をまもることができる〕
岩倉具視は皇室財産をどう考えていたか?  [1]

概 略 如何にして国会に対抗すべきか
明治14年、ついに『国会開設の詔書』が下された。『10年後の明治23年に国会を開設する』という この『切り札』は、まさに大混乱に陥ろうとしていた日本を救う唯一の方法だったのかもしれない。略
そもそもこの発想は明治維新の立役者「岩倉具視」が考えたことらしいのです。彼の発想によれば、いかに自由民権の嵐が吹き荒れようと、いかに国会の勢力が大きくなろうと 『自分達の作成した明治政府を壊されたくない』という一心だったと思います。以下に「中公文庫 色川大吉著 日本の歴史21」の文章を引用してみます。
「・・十五年ニ月、かれが内閣に建議した皇室財産設定に関する意見書は、その第一弾とみられる。
これは、国民の全財産と大差ないほどの皇室の財産を大至急設定し、それによって陸海軍の経費はもちろん政府の維持費まで支弁するならば、どのような国会の攻撃があっても大権をまもることができるという、おどろくべき意見であった。
 官有の山林はあげてことごとく皇室の御料地に編入せよ、また国有鉄道・工場なども皇室財産部に移管せよ、『我国今マサニ憲法ヲ建定セントセバ先ヅ皇室ノ基礎タル実質ヲ鞏固ニシテ以テ千万歳後、大権動揺ノ弊ヲ今日ニ防遏セザルベカラズ』。
・・・しかし、皇室財産を急ぎ大量に設定して、国家権力の物質的基礎たらしめよという岩倉の建議は、そのまま実行にうつされた。それは、あきらかな経済的支配階級の基礎を持たなかった不安定な当時の明治国家としてみれば、緊急の必要事であったにちがいない。」
 確かに、皇室自身が国家の財政の大半を占めているなら、如何に自由民権運動が激しく動こうとも あるいは国会でどのうような決議がなされようとも 問題になりえないのだろう。しかも 伊藤博文らはこの時すでに憲法草案を頭に描いていた。その案でもっとも苦労したのは 『天皇』の地位・役割の部分であった。この部分を明文化する為に10年の年月を要したといっても過言では無い程、よく検討された内容に仕上がった。(明治憲法については、そのボリュームが多いので 別なページを用意させていただきます)
簡単に言ってしまえば、『天皇はなにものにも縛られない。憲法を破り あるいは破ろうとしても 天皇を裁く法律は無い。しかも、天皇は司法・立法・行政の全てから独立した地位に存在する。』のである。
 以下、皇室財産の急増ぶりを先ほど引用した「日本の歴史21」から拾い上げてみた。
 「・・・明治十四年の皇室料地わずか六三四町歩は、九年後の明治二十三年には三六五万四千町歩に達していた。これはじつに六千倍で、その年の民有林野総面積八三八万五千町歩の半分に近い。
 さらに、土地以外の株券と貨幣による皇室財産は、十五年の一七一万余円が、十七年十二月には日本銀行の株式三五〇万円をくみいれ、さらに二十年に日本郵船の株式二六〇万円を収めて、同年末には小計七八八万五千余円の巨額にのぼっていた。
 いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりである。・・・」
 (なお、この当時は、米一升が六、七銭で購入できた。どうしてもお金の概念がつかみずらいのですが、当時の1円は 現在の1万円程度と考えると良いでしょう)
このようにして、国民や農民のお金が 皇室に集まる仕組みが出来上がってきた。それと同時に軍人勅語・教育勅語等が準備されていく。明治の時代の大きな曲がり角のうちの1つであろう。

「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」 [2]

□天皇家の銀行関係の主な持株
 日本銀行(20万8000株)
 横浜正金銀行(20万9318株)
 日本興業銀行(4万5450株)
 台湾銀行(3万264株)
 東洋拓殖会社(5万株)
 帝国銀行(2万9110株)
□その他の諸会社株の主なもの
 王子製紙会社(6万608株)
 関東電業会社(3万4749株)
 南満州鉄道会社(8万43175株)
 台湾製糖会社(3万9600株)
□皇室所有の土地の主なもの
 森林(318万3287エーカー)
 宮城および御所(2256エーカー)
 農地(9万7637エーカー)
 建物敷地(559エーカー)
 その他(3万502エーカー)
アジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。
 そして国民や農民の資産が 皇室に集まる仕組みが出来上がった。
それと同時に軍人勅語・教育勅語等が準備されていくである。
大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
~中略~
1887年に横浜正金銀行条例が制定され、特殊銀行として外国為替銀行となった。その後日露戦争に際しては外債募集に努め、日露戦争後は満州における中心的な金融機関となって、支店網を拡げ外国との貿易・金融の面で巨額の利益を上げた。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」

◆④〔戦争で、植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになる。〕
天皇の蓄財①(1936年2.26事件の真の闇/補遺
Weblog 心に星雲より [3]
2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。
皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。
 

「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」~中略~ 
・先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。
 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。
~中略~
・鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。
・さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。
・天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

天皇への蓄財というかたちを取りながらそこに日本という国家の行く末を託した先人の苦悩が感じられる。

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