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金融国家:英国の歴史

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英国は、国の発展を産業活性化によるのではなく、金融立国で実現していく道を選択していますが、それは遥か以前からの国家としての大方針であったようです。
 
金融国家としての英国の歴史を考えて見たいと思います。
 
以下、倉都康行著、「金融vs.国家」からの引用です。
 
 
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以下引用
【政治が引き寄せた英国金融】
 英国とインドの歴史的な関係は、そのまま東インド会社の社史でもある。インドに拠点を構えた英国にとって目先のライバルはフランスであったが、英国が優位を得た背景には、それぞれの政府の「腰の入れ方」の違いがあった。英国の東インド会社に対してフランスはミシシッピ会社で対抗、ともに国王が特許を与えた会社であったが、英国政府が東インド会社をインド統治の出先として政治的に利用したのに対し、フランス政府は商業面での関心を寄せたに過ぎなかった。英国政府が東方貿易の、そして国際金融の覇権を引き寄せたといってよいだろう。
 
 19世紀後半の世界の貿易構造を概観してみると、英国の貿易収支は大幅な赤字であったことがわかる。それは、もともと多かった原料や食料品輸入に加えて、ドイツや米国などの新興勢力から生産財を大量輸入し始めたからである。それを海運業収入や保険料で賄いながら、徐々に利子配当収入が増えて「世界の工場」から「世界の銀行」に変身していった、というのが英国の金融立国ストーリーであるが、そこにはインドが大変大きな役割を果たしている。
 インドは英国から大量に消費財を輸入したうえに、本国費(Home Charges)と呼ばれる植民地独特のサーチャージをも支払っていた。大航海時代を経てオランダに敗れた結果として手に入れたインドは、英国にとってかけがえのない宝物になった。そのインドを利用した金融は、英国の金本位制における主導権を確立することになる。
 
 世界をざっくり鳥瞰すれば、工業力で米独に追い抜かれた英国が両国から工業製品を輸入し、ドイツはその黒字でインドやオーストラリアから原料や食料品を輸入し、米国は貿易外取引で欧州や農業国に支払い、それらの資金が英国に貿易、貿易外取引として還流していくという構図であった。
 単純にいえば、英国から出て行った資金が各国を通じて英国に還流しているわけだが、英国が膨大な海外投資を行いえたのは、英国に資金を注ぎ続けるインドのおかげでもあった。ちなみに英国はインドには金本位制を導入しないで金為替本位制を敷設し、英国が対インドで入超であっても金がインドに流れないような仕組みを作っている。これでインドの黒字に相当する金は英国に止まったままとなり、英国は金流出の懸念を回避することができたのである。
 
 こうしてアジア交易を通じて巧みな国策を遂行した英国が、国際金融の覇権を握ることになった。英国はこの「交易と通貨」を起点とし、次のステップとしての「資金の資本化」、さらには「資本の集積・増殖」という金融メカニズムを駆逐させる「国際金融センター」への足がかりを作っていったのである。
以上引用終わり
 
 
 
 
 
産業を育成するより、国家間の金の流れとルールを作り上げることが最も利益を上げる近道であることを誰よりも知っている英国は、東インド会社の時代から国家政策としていかに金融取引の実権を握るかに注力し、その地位を築き上げてきたようです。
決定的なのは引用にもあるように、世界が金本位制で動いている時に、インドとの間では金本位制を取り入れないという政治的決定により、金の流出を心配することなくインドからいくらでも輸入超過にできる環境を作り上げていったことです。
国際金融の世界で優位に立つため、国家プロジェクトとして金融政策を推し進めていくというのが英国のスタイルです。
金貸しが国家に取り入り、国家は金貸しと共謀し、国家そのものが金融を主産業とする方針を取って行ったのだと思われます。
その結果、現在、世界の外国為替取引高の34%(約145兆円/日)がロンドンに集中するという(世界第2位のニューヨーク為替市場の2倍近い規模)、圧倒的な金融センターとしての地位を築き上げています。

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