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権利って何?自然法の歴史からその成立過程を読む(2/2)

権利って何?自然法の歴史からその成立過程を読む(1/2)の続きです。
自然法について、いよいよ近代以降を見てみます。


4.近代
政治学者達によって自然法から自然状態という観念が捏造されます。さらにそこから近代国家に繋がる社会契約論がうみ出されます。
http://www.ken-group.net/paperom.htm [1]

近代自然法論は,各論者の世界観や人間観の相違,また背景とするそれぞれの時代の状況等によってきわめて多様な主張をもっている。しかし,共通の要素もある。それは,①自然状態を想定すること,②社会契約に基づいて国家状態ないし法状態が成立すると主張することの2点である。

①自然状態
自然状態とは,社会生活から一切の国家的強制ないし政治的支配とを除去した状態であり,人間が自然=本性のままに生活している状態である。このような状態における人間は,自由で平等な存在者と捉える。こうした理解を,啓蒙期自然法論者のほぼ全員が共有している。ただ,本性の向う先は論者によって異なる。グロティウスは,人間の本性を理性的性格と社会性に求めて,自然状態もまた一定の秩序ある状態と考える。ホッブスは,人間は根本的に利己的な自己保存の欲望に満ちた存在であり,それゆえ自然状態において人間は「万人に対する万人の闘争」をくりひろげ,相互に狼であるような秩序を持ち得ない存在とみなす。ロックは,自立的な個人を出発点として,不確実ではあるが一定程度の秩序を保持している自然状態を想定する。

②自然状態における自然法の位置づけ
グロティウスは、自然法を人間の理性的かつ社会的本性に合致するものと考え,自然状態においても妥当すると主張する。これに対して,ホッブスは,恒常的な闘争状態である自然状態から脱け出し,そこへと再び転落しないために,理性によって発見される法則を自然法と考える。彼は,自然権と自然法を区別し,さらにそれらが対立関係にあると考えている点に特徴がある。ロックは,主体的個人の自然的な基本権の保持と相互的尊重を命ずる理性法則として自然法を捉えていたがゆえに,自然権と自然法を対立し得るものとは考えない。それに対して,ホッブスは,自然権を自然状態において各個人がもっている無制約的な自然的自由(わがまま)とし,したがってこれは生命・身体・財産の安全を脅かす闘争状態である自然状態から脱却するための障害になると考える。それゆえ,ホッブスに従えば,自然権を放棄せよと支持する理性の命令こそが自然法ということになる。

③自然状態と社会契約
人間が不安定な自然状態から脱け出して安定した社会的な生活状態へ移行し,それを保持するために諸個人はどのようなことをすればよいのか。これが自然法論者たちに課せられた次なる課題であった。彼らの出発点は,自律的個人すなわち自由・平等・独立という属性を有する個人であるがゆえに,なぜ本来的に自由な諸個人が国家の命令や法に従わなければならないのかを説明しなければならない。これに答えるために論者のほぼ全員がもち出してくる考え方が社会契約論である。すなわち,契約はあくまでも締結当事者の自由な意思に基づくがゆえに,何ものによっても奪われることのない自分の本来的な権利を,自分の自発的な意思に基づいて,つまり契約を通じて譲渡することになる。こうして,諸個人が政治的共同体に結集することを,契約という考え方によって啓蒙期自然法論の大前提に抵触することなしに説明可能にするしかけ,これが社会契約論なのである。
この社会契約を締結する動機と内容についても各論者によって様々であるが,自然状態における生命・身体・財産への危険を回避し,それらの安全をより強力に確保すべく,そしてまた公的な調停者の存在しない利害の衝突状態から逃れるべく人間は社会契約を締結する,という理屈は共通する。各論者の考える社会契約は,個々の具体的な内容をひとまずおいてみれば,人間が自然状態において有している自由ないし権利を,全部または一部を放棄して一個の政治的共同体に結集することを趣旨とする契約という共通性をもつ。ちなみに,契約当事者は,当然であるが当の政治的共同体に参加する全員である。ただ,社会契約は契約である以上,各人に締結するか否かの選択の自由は与えられている。契約をしなければ,自然状態にとどまる権利をもつが,国家公民としての保護は受けられないことになる。

④社会契約論に潜む問題点
自然状態を想定して,そこから自然法・自然権を想定する。さらに,安定状態にするための理屈として,各人は社会契約を国家との間に締結したと想定することで,社会契約論は成り立っている。しかし,すべて「想定」なのである。そもそも我々は社会契約を実際に国家と締結した記憶はない。あるとするならばジョークにすぎない。ここで,なぜ諸個人が国家との間に社会契約を結ぶのかが不明となる。赤刑法学者としても有名なラートブルフによれば,社会契約とは,現実の人間がもつ意思の現実的な一致を意味するのではなく,「むしろ各人が,それが自己の真実の利益の中に存しているがゆえに,道理上欲せざるを得ないものが欲せられたものとして擬制される」ものである。したがって,その契約当事者もまた,自己の真実の利益を認識しており,それによってのみ自己を規定するような「純粋の理性者として擬制される」ことになる。要するに,人間が理性的存在であるとすれば,その理性的な判断に基づいて自己の真の利益を想定し,当然に締結するはずのものとされる。つまり社会契約は「擬制」の上に創り上げられたものである。
このように,社会契約は,人間が「理性的存在であるならば」という仮定的条件のもとに,「締結するはずである」というされるフィクションなのである。

⑤社会契約論の問題点と自然法論
近代市民社会は,個人と個人,個人と社会,さらに人間と自然の分離対立を必然的にもたらす社会システムである。啓蒙期の自然法論も,決してここから無縁ではいられない。すなわち,近代自然法論の想定する自由で平等の独立した個人という人間像も,現実の中で具体的な個性をもって生きている生身の諸個人からその一側面を抽象して成立し得たにすぎない。それゆえ,近代自然法論は2つの意味でイデオロギー性をもつことになる。1つは,絶対王政を倒して政治権力を奪取しようとする市民階級の主張を正当化する役割を担うという点であり,もう一つは,自然法論に限らず,近代的な法的思考が共通してもたざるを得ない個人の抽象化という意味である。また,留意しなければならない点として,当時の市民階級にとって理想と捉えられたもの,彼らにとって歴史的に必然であると考えられたもの,また望ましいとされた人間の諸規定,自由や平等,理性また博愛等々を「自然=本性」概念の中にあらかじめ織り込んでおいて,そこから自然法上の規定を導出するのである。それゆえ,自然法理論とは、絶対的正義を考究し確定するという建前にもかかわらず,実際には,当の論者の理想とする法や国家のあり方を「自然=本性」を用いて正当化する理論になりがちである。逆に言えば,絶対的な正義を標榜するがゆえに,かえってそれを認めない人々や思想を,絶対的な悪として抑圧する危険性を有するのである。赤

結局自然法、あるいはそこから生まれた権利とは何なのか?
特に近代以降顕著ですが、そこにあるのは歴史上過去から受け継がれた自然法=本来あるべき姿や規範、法則という観念(思考法)を利用し、中身を都合よいものに入れ替えただけといってもよいのではないでしょうか?
この自然に本来あるべき姿や規範=自然法という観念を前提に置くことで正当化し、(当然自然にあるべき姿なので)だれにも反論出来ない構造を利用していると言っても良いでしょう。
しかしそのあるべき姿の根拠は?と問われると中身は全くと言って良いほどありません。
したがって現在置かれている諸問題の根底にあるこの権利観念は、何の根拠もない実に都合のよい正当化観念なのであるという自覚が必要です。

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