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日本支配の構造2 日露戦争~太平洋戦争前

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横浜正金銀行
 
 
日清戦争で台湾を得た日本は、朝鮮、満州地域における権益闘争へと向かい、その相手も清の同盟国ロシアへと移っていきます。
 
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4.日清戦争後 
 
 日本より前から中国の利権を狙うイギリスと日本は、1902年日英同盟を結びます。その2年後日露戦争が開戦、翌年のポーツマス講和条約で、日本の朝鮮での優越権、東清鉄道の一部(後の南満州鉄道)の租借権、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権などを獲得します。
 
 日本が日露戦争の戦費調達をロスチャイルドのクーン・ローブ商会から行なった事は有名ですが、当時の日銀副総裁高橋是清は日銀につとめるだけでなく、1895年から4年間ほどは横浜正金銀行の頭取も勤めています。横浜正金銀行は、福沢諭吉大隈重信が尽力して設立した外国為替を扱う銀行です。この銀行の組織はHSBCを範としているそうで、日清戦争の賠償金の送金などで活躍し、多くの外債発行を成功させた当時の有力銀行です。
 
 HSBC、横浜正金の関係はその取引以上に強く、その頭取で日銀の重役でも有る高橋が何の伝も無くロンドンに出向くとは極めて考えにくいものです。最初からロスチャイルド資本との結びつきがあったと考える方が自然でしょう。クーンローブ商会との仲介を果たしたシャンドと言う人物は、日本の大蔵省のお雇い外国人で、高橋は少年時代シャンドのボーイを勤めていたとの曰くつきです。
 
5.三井物産の中国戦略 
  
 当時の日本の最大資本家である三井家(三井物産)の対中戦略はどのようなものだったのでしょう。文献「財閥と帝国主義」によれば、
 
「三井物産が満州に進出したのは1896(明治29)年に営ロに代理店を設けたことをその嚆矢とする。三井物産にとって満州は日露戦争と満鉄とに深く結びついていた。日露戦争で三井物産は軍の「御用商売」をつとめた。糧食その他の物資買付、諸施設の準備と後始末、鉄道敷設地の買収など現地での三井物産の諸機構を総動員した軍事調達であった。さらに三井物産社員は、各旅団に配属されて進撃する軍隊に後続し、物資の買い集めや車馬、苦力の徴発、橋梁材料の買付、通訳の手配に至るまであらゆる現地調弁の仕事を担った。有名な日本海海戦においても、バルチック艦隊の航路をいち早く察知したのは、三井物産上海支店の森恪であったといわれる。日露戦争による満鉄の獲得は満州の市場価値を著しく高めた。何よりも満鉄を軸として、満州へ綿布を輸出し、その見返りに満州大豆および大豆粕を輸入すると言う循環が大規模に可能となったことである。(略)それまでの満州市場を支配していたのはアメリカ製品であり、(略)1910年にはアメリカ製品の輸出量を上回った。(略)このように三井物産は、軍事的侵略、満鉄、横浜正金銀行などと相補いつつ、満州での取引を急拡大するが、(略)列国の売り込みと恒常的に競争するには、何としても対中国投資機関が不可欠であった。列国の商売が露清銀行やロスチャイルドの金融的支援の下に鉄道投資を行なっていたのに対して、三井物産自身は、例えば1902年に上海紡績株を買い入れたわずか22万5千円の資金さえ露清銀行から借り入れていた。」
と、あります。
 
 対中国投資機関を持たない、との記述には興味深いものがあります。台湾で製糖事業を独占した三井もこの頃既に列強資本とは恒常的な競争状態に入っており、三菱系である横浜正金銀行の資金だけでも不足しがちな資金繰り状態が伺えます。
 
6.満鉄と三井物産 
 
 満鉄の初代総裁はかの有名な後藤新平ですが、満鉄の理事には田中清次郎と犬塚信太郎という三井物産出身者も登用されました。中国で利益を上げたい三井物産にとって、満鉄は極めて重要な位置にあったようです。再び文献「財閥と帝国主義」を引用します。
 「1927年10月にアメリカのモルガン商会・トーマス・W・ラモントが来日し、満鉄の社債を引き受けるための交渉を開始した。(略)團は国際資本―とりわけアメリカ資本との協調や経済界の世話役として活動した。それは1920年代の三井財閥、ワシントン体制下でアメリカ資本との連携を必要としたことや、第一次大戦中に急成長した国内資本との協調を必要としていたことを象徴するものであった。(略)1921年に團琢磨を団長とした英米訪問実業団が渡米したが、このときもラモントは、團に対して格別の歓待をした。(略)團とその友人を私邸に招き、プライベートな歓迎の宴を開いた。ラモントはその席にGE社長や、クーン・レープ商会創立者ヤコブ・シェフの息子やナショナルシティ銀行の頭取、ノーザンパシフィック鉄道社長などを招待しておき、(略)満鉄の外債問題のその後については(略)ラモントの帰米直後から満州の張作霖らの強力な反対に合い、頓挫したのである。(略)なぜ、山本条太郎は、満鉄社長と言う最大の当事者にありながら、この大事な交渉にあたって、東京にいなかったのだろうか。実は山本は、このとき北京にいた。北京で張作霖との交渉にあたっていたのである。彼はラモントが来日していたまさに1927年10月に張作霖と交渉し、日本が満州に新たに5路線の鉄道を敷設することを認めさせる秘密の協約を成立させていたのであった。」 
 
 クーン・レープ(ローブ)商会はロスチャイルドの系統ですが、もう一人のナショナルシティ銀行ももともともクーン・レープ商会と関係が深かかったようです。しかし、90年代に“石油王”ジョン・D・ロックフェラーⅠ世の弟ウィリアム・ロックフェラーが経営に参加してロックフェラーの影響が強まっていきます。三井物産は、満鉄の資金繰りを国際資本に頼ろうとしていました。しかし、一方で英米と対立する張作霖とも交渉する二面外交を展開します。なお、当時三井物産の主要な商品であった大豆は張作霖との競合状態にありました。
 
また、山本条太郎 [1]とは三井物産取締役から満鉄社長となった人物です。
 
日本人が知らない 恐るべき真実 研究ノート [2]より、高岩仁監督著『戦争案内―映画製作現場、アジアからの報告』の抜粋・引用です。
 
 「日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させた一つの部門は大豆でした。“満州”は、世界的な大豆の産地でした。それを三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。しかし1920年代になると、三井の大豆の取扱高が伸び悩んでいます。この時期の三井物産の支店長会議の議事録が残っています。それには、「満州の軍閥張作霖が大豆の買い付けに手を出し始めたので困った」という趣旨のことが書かれています。そのうえ張作霖は、日本が植民地支配の動脈のように利用していた満州鉄道に平行した独自の鉄道を計画して、着工を始めたのです。この鉄道が付設されてしまうと、日本の植民地経営には大きな打撃になります。鉄道工事が始まったその直後、張作霖は、関東軍によって列車ごと爆殺されてしまいました。これが1928年です。その翌1929年度の三井物産の大豆の取引高は倍近くに跳ね上がっています。」
  
7.満州と列強
 
 上記の様に日本を代表する財閥が政府と一体となって開発した独占市場「満州」を、欧米列強はどう見ていたのでしょうか?日露戦争(1904-1905年)に次いで日本が参加した第1次世界大戦後(1914-1918年)のワシントン会議で、日本の4カ国条約、中国の9カ国条約などで一応の「縄張り」は確定しています。一方日本が満州を領有していたのは1906年からですが、満州国を建国するのは1931年です。この間、満鉄警護部隊から発展した日本の関東軍の工作が相次ぎ、欧米列強としてもそのままにはしておけなかったというのが実情でしょう。日露戦争までは満州の統治を日本が担うことに反対は無かったでしょうが、その後米英との対立を深める様子は、先の資本家同士の「ご都合主義」を通り越した日本政府の「深みにはまる」様子が見て取れます。特に満州における関東軍の暴走とも言われる独自路線は、日本を米英から切り離し、だからこそ、米英にしてももはや日本を野放しには出来ないと認識するに至ったのだと思います。

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